2019年11月12日火曜日
木割大雄「さてもさて俳句はタテ句鬱王忌」(「カバトまんだら通信」第42号より)・・
「カバトまんだら通信」第42号(カバトまんだら企画)、赤尾兜子のことなら、何でも聞いてほしいという木割大雄、その冒頭の挨拶「おひさしぶりです」に、
平成八年、師を語る、ただそれだけのことを始めてようやく四十二号です。師を語る、と書きましたが、本当に人様の前で語ったことが一度だけあります。平成二十九年二月二十五日伊丹市の柿衞文庫というところ。大阪俳句史研究会の講座でした。(中略)
今年で師・赤尾兜子没後三十八年になります。
とあり、本号のメインはその講演録「赤尾兜子 人と作品」の再録である。関西弁の語り口が魅力的だ。一部を以下に紹介する。
(前略)宇多喜代子も言うんです。「渦」といえば、、中谷寛章と藤原月彦しか知らん言うんですヮ。俺の名前言わへんねん(笑)。というのは私が出来の悪い弟子やということを百も承知なんで、出来が悪い弟子ですから、多分かわいがられたんだろうと思ってるんですけどね。
中谷寛章という男が、これまた幻の男でございまして、ここに「青」の古い雑誌を持ってきたんですが、この「青」の雑誌に波多野爽波の巻頭が中西愛、ずーっと後ろに来まして山本洋子、友岡子郷、で、ずーっと来まして三句欄に京大・中谷寛章、二句欄に尼崎・木割大雄、同じく二句欄に京大・原田暹ていう時代があったんです。で、この京大の中谷寛章が私より一足先に「渦」に入ってますね。その中谷寛章は昭和四十八(一九七三)年に亡くなるんです。(中略)
棺に下駄君が好みし目刺なども
は、中谷寛章追悼句です。
空鬱々さくらは白く走るかな
この辺りから鬱病が始まるんです。ということは一番最初に鬱病らしきものになるのは中谷寛章が死んでからです。中谷寛章が死んでから先生が気が弱くなる。だいたい鬱病は躁病を同時に持ってはるんです。躁病の時は往生しまんねん。長電話がかかってきてね。躁病鬱病にありながら私はずっとそばにいました。そんな中でいろんな句を書いてくるんですが、思い出すままに、そうですね、私が好きだった句は『歳華集』に掲載の、
春意とは山墓箒立てしまま (中略)
で、兜子先生が亡くなる前にお兄さんの赤尾龍治さんが亡くなってはるんですね。お兄さんが亡くなった時にね、さみしそうに言いましたわ。「木割、これでな、俺怖いと思う人が一人もおらへんようになってん」と言いましたんですね。それも最後の悲しい時のことにひきずっているんではないかな、と思うんですけど。
で、この〈降る雪に幽(しづ)かないのりつゞきしが〉を発句として、〈ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう〉を挙句として読んでみてほしいです。そうすると、赤尾兜子が一生かかって、一生を棒に振って一巻の連句を巻いていたというふうに思って赤尾兜子の句を読んでもらったら私は嬉しいなって思うんです。その中で皆さん好きな句が一句でも二句でも出てきたら嬉しいないうふうに思います。
また、他のエッセイ、「ー兜子の旅ー ピアノの上で」の中には、
在る夜、句会のあと兜子が編集部の一人を呼びよせた。その一人とは、私を句会に誘った男。
彼が、私につき合えと言う。(中略)
その深夜。居酒屋で兜子の激する光景に出会った。
のちのち、あれには困ったと多くの人が言う。
〈兜子の激しい姿〉。それに私はハマってしまったのだ。
兜子の作品に惚れたのではない。兜子の、俳句に対する熱情に誘いこまれたのだった。
その夜から兜子作品を筆写し、俳句とはナニ?と考え続けるハメになってしまった。
ともある。兜子を語らせれば、この人、木割大雄の右に出るものはいないだろう。
ともあれ、木割大雄の句作品も掲載されている。その中から、愚生の好みでいくつか挙げておこう。
春の草昨夜の雨と別れけり 大雄
深々と腰折る人にちるさくら
酒癖の悪しき女と梅雨の傘
ムシヘンを習わぬ子らと蝉時雨
消しゴムが土に還らぬ白露かな
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