2019年11月14日木曜日
池田澄子「忘れちゃえ赤紙神風草むす屍」(『俳句の射程』より)・・
原雅子『俳句の射程』(深夜叢書社)、帯の惹句に、
俳句と出会う、俳句と生きる
現代俳句協会年度作品賞、角川俳句賞受賞作家による、Ⅰ〈現代俳句を読む〉(「梟」誌)とⅡ〈秀句の風景〉(「雁坂」誌)連載シリーズを合わせた湊合詞文集。瑞々しい感覚、詩意識で紡がれた俳句日めくり暦。時代を超えて心に響く俳句史の珠玉を真に味読するための必携の好著。
とある。「豈」の同人諸氏の句の評釈を探したが、池田澄子と山﨑十生の二人のみの搭載であったので、まずは十生の全文を引用し、後に、池田澄子部分をのみ、以下に抄録紹介しておきたい。
カンナとはフレンチカンカン祖(おや)とせり 山﨑十生
一読、唖然。頭にこびりついてしまった。レビューたけなわ、極彩色の膨らんだスカートの群が狂喜乱舞の出現をするのがこのダンス。真夏に咲くカンナのイメージが交錯する。それが一句のすべて。
と記されている。さて、池田澄子の句に関する部分は以下、
多くの死者を出した震災ののち、世情への不安感は次のような作品となって表れてくる。
忘れたり三・一一も英霊も 照井 翠
横道に逸れるが、この句から思い出したことがある。
忘れちゃえ赤紙神風草むかばね
照井句の「忘れたり」も池田句の「忘れちゃえ」も断定の語である。だからといって、これを文字通り受けとる者はいないだろう。怒りをこめた反語としての言葉なのだから。
だが、池田句の発表当時、忘れてしまえとは何事かという異論が出て物議をかもしたのを覚えている。ずいぶん浅い理解をしたものだと思ったし、何となく立ち消えになってしまったが、表現の文脈上は確かに否定の語はどこにもない。読み手の側との共通理解となる戦争否定の意識があってはじめて、作者の意図は支えられる。さらに当時、池田句擁護の意見の中に、
あやまちはくりかへします秋の暮
を引いて、これと同じことだからという評もあったのだが、三橋句の場合は「あやまち」という、判断を示す語がはっきり入っていて、作者の意図は宙に浮かないように仕立てられていている(ついでに補足すると三橋句は原爆死没者慰霊の碑文〈あやまちは繰り返しませぬから〉を下敷きにしている)。
短詩型ことに俳句は読者に委ねる部分の引き締め方、緩ませ方が重要なのだとつくづく思う。共通理解の範囲は普遍性とも係わってくる。
と、その読みを明快に示してくれている。この共通理解という認識の範囲は、それでも、つねにクエッションにされているのだろうか。その意味でいえば、攝津幸彦の、
南国に死して御恩のみなみかぜ 幸彦
の句の評価もこの句を読む世代によって、句の評価が大きく変わる句のひとつである。池田澄子「忘れちゃえ」の句の評価の分岐も同じ根にあるように思える。時代の背景による、時代の負っている感性、それを時代の文脈とでもいうべきか。たしかに、そこには三橋敏雄の「あやまちはくりかへします」の示す強いメッセージ性はないのかも知れない。
ともあれ、本著には池田澄子の句は多く取り上げられているので、その中からいくつかを以下に挙げておきたい。
こころ未だ家でめそめそ青葉垣 澄子
松過ぎの子らに普通の空気あれ
風花や何を言いかけたんだっけ
こころ此処に在りて涼しや此処は何処
春寒の灯を消す思ってます思ってます
枯れるべきもの枯れきりぬ日の恵み
蓬来やプラスチックは腐らない
哲学や下学や薩摩芋の句
産声の途方に暮れていたるなり
青い薔薇あげましょ絶望はご自由に
原雅子(はら・まさこ) 1947年、東京生まれ。
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