平敷武蕉『修羅と豊穣ー沖縄文学の深層を照らす』(コールサック社)、解説は鈴木比佐雄「沖縄の『修羅と豊穣』とは何か」。その冒頭に、
現在、最も旺盛に沖縄文学全般を視野に入れて批評活動をしている平敷武蕉氏が、『修羅と豊穣ー沖縄文学の深層を照らす』を刊行した。一章「小説」、二章「俳句・短歌・詩」、三章「社会時評と文芸」、四章「書評の窓」に分かれ三八四頁にもなる大冊だ。
とあり、愚生は俳人だから、当然のように第二章の「俳句」の部分に目がいく。とりわけ、その項目では、愚生のよく知らない沖縄の俳句状況に触れた「時代と向き合う沖縄の俳句ー二〇一七年・俳壇・年末回顧」、「政権の暴走 俳句の保守化誘発ーニ〇一八年・俳壇・年末回顧」の「沖縄タイムス」掲載の時評によって、おおよそを知ることができる。その2017年回顧の部分には、
相変わらず自然詠と時代に従順な俳句が主流を占める本土俳壇に比して、沖縄の俳句人たちは、年間を通して時代に向き合う句を発表している。
とあって、その締めの句は、「天荒」の野ざらし延男の、
地球の皮を剥ぎ除染とは何ぞ 延男
火だるまの地球がよぎる天の河
もう一つ紹介しておきたいのは、「豈」同人でもある井口時男『永山則夫の罪と罰』についての書評「はまなすにささやいてみる」。井口時男句集『天來の独楽』(深夜叢書社)の抄出句について記された部分(句は愚生引用)、
刑務官ら破顔(わら)へり若き父親(ちち)なれば 時男
網膜を灼(や)く帽子岩陰画(ネガ)の夏
夏逝くや呼人(よびと)といふ名の無人駅
昏(くら)く赤く晩夏の影絵となりて去る
はまなすにささやいてみる「ひ・と・ご・ろ・し」
句を読むと、永山が作った作品かと思ってしまうが、、これは『永山則夫ー』の著者であり句集の著者でもある井口時男氏が、永山の立場に身を移し入れる形で作った俳句である。井口氏は、実際に、永山の立ち寄ったであろうその現地を訪れてこれらの句を作っている。そのため、その場面や心境、永山の文章上のこだわりなども、永山のそれに擬している。「破顔(わら)へり」「灼(や)く」「夏逝く」「昏(くら)く」などの漢字の特異な使い方にも漢字表記にこだわったという永山のそれが表れている。
〈はまなすにささやいてみる「ひ・と・ご・ろ・し」〉の句は一変して、漢字表記を退け全部平仮名を用いている。
飢え死にせんばかりの極貧と、母親やきょうだいからの虐待、そして捨て子にされた体験を負いつつも、はまなすの花の赤く咲く網走の砂浜は故郷の思い出として記憶に強く焼き付いている。が、しかし、四名も殺した人殺しー。この句は、人殺しという許されざるその行為を獄中において悔いているという設定で書いている。(中略)
そして「〈はまなすにささやいてみるー〉には、自分への呪詛と深い贖罪の問いがある」と結語されている。
平敷武蕉(へしき・ぶしょう) 1945年沖縄県うるま市(旧具志川市)生まれ。
★閑話休題・・・葉山美玖詩集『約束』・・・
版元・コールサック社、解説者つながりで葉山美玖『約束』(コールサック社)、解説は鈴木比佐雄「「悲しみを幸福へと裏返していく愛の詩編ー葉山美玖詩集『約束』に寄せて」。冒頭の「生まれる」一篇を紹介しておこう。
生まれる
1964年9月25日
東京広尾の愛育病院の一室で
私は生まれた
新幹線開通の年
さびれた単線電車のプラットフォームで
私は生まれた
東京オリンピックの年
アベベ・ビキラの踏みつけた足の裏で
私は生まれた
ベトナム戦争勃発の年
トンキン湾で
私は生まれた
ビートルズが初訪米した年
熱狂するファンの女の子の子宮に
私は生まれた
1964年
私は
そこかしこで生まれた
著者「あとがき」には、「(前略)十二年前の私はそんな極々当たり前のことも出来ない人だった。一日四十錠以上薬を飲まされていたので体も頭もふらふらするし、徒歩で人の集まる場所に出ると軽いパイプ椅子を二脚運ぶだけで息がゼイゼイした。だが、私は詩を書き始めていた」とある。「家族の反対を押し切って薬を出したがらない主治医るクリニックに転院し」たともあった。だが、「今の私は、一人でご飯も炊ければ味噌汁も作れる。簡単な料理や副菜も作る。毎日洗濯をして、時折詩人の集まりに参加して暮らしている」らしい。
葉山美玖(はやま・みく) 1964年東京生まれ、さいたま市(旧浦和市)生まれ。
BLOG読者より ↑
拙詩集をブログにて取り上げてくださりありがとうございます。
返信削除お礼のコメントが遅くなりまして申し訳ございません。
わざわざのお便り、有難うございます。向寒の折、お身体大切に、ご自愛、ご健筆祈念致します。
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