2019年11月21日木曜日

生駒大祐「シュワキマセリ水中のもの不可視なり」(「オルガン」19号より)・・



「オルガン」19号(編集・宮本佳世乃、発行・鴇田智哉)、特集は「生駒大祐『水界園丁』。論考は藤田哲史「勤勉な詩人の比喩としての『園丁』」、岡田一実「句跨ぎのグル ーヴ感」、今野真「ゆったりとした明滅」、田中惣一郎「思い出、水の泡」。田中惣一郎は、

 (前略)わけもなく訪れた旅先で拾った一つの木の実が、帰り着いた自室の小さな抽斗にしまわれ、忘れられ、また思い出されつつ記憶の片隅に確かにあり続けるかのような天衣無縫の孤独の詩性を、生駒大祐句集『水界園丁』に私は見る。 

 と記している。他に、座談会「生駒大祐『水界園丁』を読んでみた」(田島健一×鴇田智哉×福田若之×宮本佳世乃)。なかに、ブログタイトルにした句についての発言がある。

 福田(前略)『水界園丁』の先行テクストは俳句に閉じてはいない。たとえば、冒頭の〈鳴るごとく冬きたりなば水少し〉をどう読むか。シェリーの詩を念頭に置くと、秋の句になってしまう。この句をあくまで「冬」のものとするなら、むしろたぶんキリンジの堀込高樹が書いた「冬来たりなば」を踏まえたものと読むことになるんです。「雜」の〈シュワキマセリ水中のもの不可視なり〉の〈シュワキマセリ〉もキリンジです。「もろびとこぞりて」だけでは表記の説明がつかない。キリンジの「双子座グラフィティ」という曲に、
  カーテンコールから昇る陽を仰ぐだろう
  アドリブをぬけたテーマに沸くだろう
  シュワキマセリだろう
という一節があるんですね。これは片仮名で「シュワキマセリ」。まだあるかもしれません。(中略)
鴇田 信治さんは書いてなかったけど、この句集の〈はじめから箸置にあり秋の山〉を読んだとき、ぼくは田中裕明の〈悉く全集にあり衣被〉を思い出した。言葉の運び方が似ているんだよね。いろいろな俳句を知っているほど、そうやって先行する句がオーバーラップしてくる。初めからそういうつもりで作ったかどうかは別にしても、これは有名な句だから知らない訳はない。どちらにせよ似ていることをよしとしたから句集に入っているんだと思う。田島君の場合は、そういうのは避けようとするよね、先行句があると、そうならないようにしたいと。 
田島 僕は結社に属しているからかもしれません。生駒君の句は素直で屹立している。あまり言葉や形式に負荷をかけることはしないように見えます。(中略)
宮本 たしかにこの句集はテクニックの塊ともいえる。
田島 素直さがあるから、テクニックに嫌みがない。
福田 でも、この句集の読みどころはテクニックじゃないと言いたい!

 と述べている。その他「連句興行」の巻玖「雜の発句を試みたり」と言う第一連のみになるが、紹介しておきたい。

  オン座六句「しやつくり」の巻   璞・捌/抜け芝・指合見

 しやつくりや電信柱まで進む     鴇田智哉
  ギターケースの中はからつぽ    浅沼 璞
 あはうみに雲のかゝれる月出でて   宮本佳世乃
  鹿火屋の灯りひとの佇む      福田若之
 着て騒ぐ羽の野菜の燕尾服      田島健一
  うち重なるもつゞく四次会     北野抜け芝

 ともあれ、本号の一人一句を以下に挙げておこう。

   雨の夜、こおろぎ、眠れないから愛みたいだ   福田若之
   峠、自転車の飛び込む銀河          宮本佳世乃
   実弾に色あり霧をくだく霧           田島健一
   あふむけに狐の剃刀つかふ           鴇田智哉 


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