榎本好宏『歳時記ものがたり』(本阿弥書店)、『森澄雄 初期の名吟』(樹芸書房)、前著の「あとがき」にもあるが、20年前に、平凡社「別冊・太陽」の企画で「日本を楽しむ暮らしの歳時記」(全4巻)を編んだという。収載された全部の季語解説を一人でされたらしいが、
これまでの歳時記の季語解説にはない、読み物として面白い内容をとの特別な注文も付いた。
とあり、また、
以後、『季語の来歴』(平凡社刊)など何冊かの著書を上げたが、季語と私の生活は切り離せず、ここ三年程をかけて纏めた五十一篇が、この一集『歳時記ものがたり』である。
とも記されている。なかの項目によっては、重複する記述もあるが、邪魔にはならない。たしかに、歳時記にまつわる季語のひとつひとつの源をたどり、思わず興味を惹かれていく書きぶりだから、面白く読めないはずはない。例えば、「七と五と三は聖数」の部分で、
(前略)次の五歳の男の子の袴着は着袴(ちゃっこ)とも言い、嬰児(えいじ)から幼児への成長の祝いということになる。古くは三歳の折の行事だったが、近世の頃から五歳の吉日を選んで行われるようになった。
その儀式がまた振るっている、父親または親族の顕職(身分のある者)が、袴の紐(ひも)を結ぶ。武家のそれはもっと格式ばっていて、五歳の子を恵方の方角に向けて碁盤の上に立たせ、麻の上下を着せ、左の足から順に袴を穿(は)かせた。この男の子に、お祝差(おいわいざし)と呼ぶ二本の刀を差させ、産土神に詣でた後、祝いの宴が持たれた。
とあったりして、思わず吹き出してしまいそうなことが、まことしやかに行われていたことを知る。ブログタイトルにした句,黒田杏子「屋根から乗りて竹馬の女の子」は、「『竹馬の友』と『騎竹之年』」の部分にでてくる場面で、
(前略)黒田さんは、今でもその名残りがあるが、さぞお転婆だったのだろう。低い物置の屋根などから竹馬に乗ったというのがこの一句。
と書かれている。
後著の巻末には、師・森澄雄の没後10年にあたることもあって、追悼文二編「旅と和綴じ長帳」(平成22年8月24日「東京新聞」)、「白鳥夫人の許へ」(8月22日、毎日新聞)が収載されている。その中に、
除夜の鐘妻白鳥のごと湯浴みをり
の、やや艶(つや)っぽいものだった。この紙のコピーは今も私の手許(てもと)にあるが、以後誰言うとなく、白鳥夫人と呼ぶようになった。
の述べられている。ともあれ、集中より、いくつか森澄雄の句を挙げておこう。
妻がゐて夜長を言へりさう思ふ 澄雄
木の実のごとき臍もちき死なしめき
なれゆゑにこの世よかりし盆の花
家に時計なければ雪はとめどなし
雪嶺いとたび暮れて顕はるる
寒鯉を雲のごとくに食はず飼ふ
秋の淡海(あふみ)かすみ誰にもたよりせず
ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに
さるすべり美しかりし与謝郡
榎本好宏(えのもと・よしひろ) 昭和12年、東京生まれ。
撮影・鈴木純一 ↑
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