藤田真一『俳句の来た道』(岩波ジュニア新書)、本書は、「きみたち若い世代は人生の出発点に立っています。きみたちの未来は大きな可能性に満ち、陽春の日のようにひかり輝いています」(「岩波ジュニア新書発足に際して」)とあるように、ジュニアのために書かれたシリーズ。読み易い。蕪村研究第一人者と目されている藤田真一による、主に芭蕉・蕪村・一茶について書かれた書で、納得の一書である。「はじめにー俳句の苑(その)へ」には、
名月(めいげつ)や池をめぐりて夜もすがら 芭蕉
名月や夜(よ)は人住(すま)ぬ峰の茶屋 蕪村
名月をとつてくれろと泣子哉(なくこかな) 一茶
名月は八月十五夜のこと。すべて「名月」をよんだ句であっても、三者三様のよみぶりです。わずか十七文字の俳句でもこれだけちがうのです。俳句の多用性が予感できるではありませんか。
さあ、では「芭蕉の間」からはいりましょう。
とあった。目次の第一章・芭蕉にはー同好のよしみーとあり、第二章・蕪村にはー時空のみやびーとあり、第三章・一茶にはー葛藤のまなざしーとある。また、「おわりにー句兄弟へのいざない」では、
昔からよく行われてきた句合、芭蕉・其角のような唱和、これらとは別に其角は、かれならではアイデアをいかした、「和の句合」をやってみせました。「句兄弟」といっています。(中略)どんなものか、第一番を例に挙げてみましょう(これはこれはの「これは」の一つはおどり字)。
兄 貞室(ていしつ)
これはこれはとばかり花のよし野山
弟 其角
これはこれはとばかりちる桜かな
「兄」は一世一代前の俳人貞室の有名句、それに自作の「弟」を合わせたものです。上半分をそのまま受け継いで、吉野の満開の桜に対して、落花するさまをよんでみせたのです。其角は、この手法を「反転」といっています。たしかに句法上は反転といえるかもしれませんが、対話とみることもできるのではないでしょうか。貞室と其角の対話、あるいは両句間の対話、となると、文字通り兄弟どうしの語らいが聞こえてきます。本歌取り(本句取り)や句合とはひと味異なり、相手となる俳句と会話するなかで、「弟」が生まれてくる。(中略)『句兄弟』最後の三十九番は、兄が其角「晋子(しんし)」で、芭蕉が弟にまわっています。
兄 晋子
声かれて猿の歯白し岑(みね)の月
弟 芭蕉
塩鯛(しおだい)の歯茎(はぐき)も寒し魚(うお)の店
(中略)試みに、芭蕉・蕪村・一茶のよく知られた俳句を「兄」として、それぞれの「弟」を案じてみました。「愚」とあるのが、それにあたります。
兄 山路(やまじ)来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉
弟 あぜ道にたんぽぽゆかし母の里 愚
兄 寒月(かんげつ)や門(もん)をたたけば沓(くつ)の音 蕪村
弟 寒月や亡き子をしのぶ父と母 愚
兄 彦星(ひこぼし)のにこにこ見える木間哉(このまかな) 一茶
弟 織姫(おりひめ)の雲隠(くもがく)れにし木間哉 愚
いかがでしょうか。これらの弟句うまいでしょう。といって見せているわけではありません。兄句のことばやイメージにいざなわれて、五七五の十七文字に仕立て上げたにすぎません。「兄」があってのこその「弟」で、独り立ちできているか自信ありません。自注自解は禁物、兄・弟を比較しながら、意味やねらいを探ってみてください。(中略)いわゆる「つかず離れず」の姿勢です。わたくしは俳句作者ではなく、いわば素人俳句をつくったのです。でも、熟練(じゅくれん)していなくてともなんとかやれるのが俳句なのです。「句兄弟」は、俳句をつくるときの、ひとつの手がかりとでも考えて下さい。
さて、読者のみなさんも「句兄弟」にチャレンジしてみませんか。
とあり、兄弟はにぎやかがいいと思う人は一句といわず何句でもためしてください、ともあった。当季の一人一句を挙げておこう。
此道(このみち)や行人(ゆくひと)なしに秋の暮 芭蕉
身にしむや亡妻(なきつま)の櫛(くし)を閨(ねや)に踏(ふむ) 蕪村
けふからは日本の雁(かり)ぞ楽に寝よ 一茶
(大陸から海を渡って、ようやく日本に降り立った雁)
撮影・中西ひろ美「みそ汁に秋の終りとして入る」↑
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