加藤瑠璃子遺句集『雷の跡』(角川書店)、「あとがきにかえて」は、加藤瑠璃子の講演録「土屋文明先生と加藤楸邨」、その中の小見出しで「三、大陸に渡る」に、
(前略)この旅行は問題になるんですね、後でね。ほんの一寸そのことに触れると、戦争中も楸邨は句会をやっていたわけですけど、その頃「寒雷」に三人の軍人さんがいらしたんですね。清水清山さん(大佐)、秋山牧車さん(中佐)、本田功さん(少佐)と。三人とも「寒雷」同人の方で、句会で並びますと軍服で来ますので、凄く目だったようなんです。「寒雷」の句会は凄いような感じになるのですが。特に秋山牧車さんは大本営報道部長というのをやっていらして、昭和十九年という日本が負けだしている頃じゃないかと思うんですが、戦っている人を通してばかりではなくて、または報道関係だけでもない、文芸的な目を持った人にも見てきて欲しいという。「芸術的な意図の下に終始してきて下さい」と牧車さんがおっしゃっしたようです。しかし命の保証はないわけです。まだ船は沈められることはない時と思うんですけれど、何時何処で命を落としてもおかしくない状態の所に行くことになります。
雲の峯夢にもわきてかぎりなし 楸邨
がありますが私にはこの句から「よし何でも見て来るぞ」という意気込みのようなものを感じます。実は歌人はお二人で、土屋文明先生と石川信雄という方がご一緒でした。俳句からは加藤楸邨だけです。(中略)
文明先生はこんな歌を作っています。
利己のみの民というなかれ斯(か)くまでに力を集め国土を守る
垢つける面にかがやく目の光民族の聡明を少年見る (中略)
それから、渡邊直巳って方がいらしたようですが、多分歌人と思いますが、
渡邊直巳戦死のあとを見すといふ塩ふかく土を踏みてつきゆき
戦死した場所ということで、塩吹く土を踏んでついていくということで、実感があります。(中略)
この旅行で、実に多くの句を作って来ていますが、この中では、
天の川鷹は飼はれて眠りをり
が、最も有名になったと思います。また、実際いい句です。
み仏に燕(つばくろ)に戦いつやまむ
めくめき炎天下戦死者ばかり見き
等、戦争を感じさせる句もあります。すっきりしていて、情景が分かって、ああだこうだと言わずに、作者の気持ちのでている句を作っています。
そして、加藤真幸(加藤瑠璃子長男)は「巻末に」で、
(前略)この句集の題とした「雷の跡」も、そんな一夜の談義と創意による。山に雷が落ち、山肌が黒々と、あるいは樹の幹が黒々とえぐられる。現地の方が「『黒コゲ』と呼ぶ」と語った、というのである。こういった「感合」を何とか一句にまとめあげたいと、夜が更け、逡巡の挙句、元に戻ることが多々出であった。
雷の跡黒コゲといふ冬の尾根
決して秀句の類には入らないであろうが、最晩年の母との推敲の熱意が輝いた、忘れえぬ時間であった。一抹のあきらめを含めながらも一応の納得を見せる母の顔は美しく、作句への情熱は尊敬に値した。また、衰えに日々抗いながら、この句集編纂にむけても、自分自身にとことん厳しく、そして、「確かに」と唸らされてしまうような、自句の取捨を重ねた。
と記している。愚生の知っている加藤瑠璃子も、現俳協などでお会いすると、実に誠実味にあふれる人の良さを感じさせる方であったことを思い起こす。ともあれ、集中より、いくつかの句を以下に挙げておこう。
切子玉勾玉管玉青葉中 瑠璃子
針供養針には色の糸通し
井上ひさし氏を悼む
黄沙くる道あるらしきまたもくる
見ねば居ても居ぬと同じや群雀
叫ぶは何時も形にならず蕗の薹
どれほどの線量ならむ黄砂来て
氷瀑の前なり己透き通り
造形以上の造形山に雪が降る
いまもつてしんがりを見ず蟻の列
今も目に戦火に消えし雛達
めじな釣り見えてる魚は釣れぬと言ふ
見つけたと思へば空(から)のかたつむり
白き満月白き櫻の頂に
加藤瑠璃子(かとう・るりこ) 東京生まれ。昭和11年9月~令和2年11月4日、昭和35年、楸邨次男冬樹と結婚。享年84。
撮影・中西ひろ美「ささやかに冬菜育てて冬の顔」↑
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