遠山陽子『遠山陽子俳句集成』(素粒社)、同送されてきたのは、遠山陽子『三橋敏雄を読む』(弦楽社)である。集成の「あとがき」には、
気がついたら、なんと米寿と言われる齢になっていた。心身の衰えをつとに感じるこのごろ、これを機に生涯の総まとめをしておきたいと考えたのである。既刊の五句集に、未刊の第六句集『輪舞曲(ろんど)』を加え、一書とした。
とある。その『輪舞曲』の解説は、永島靖子「ひたすらな響き」、福田若之「折句と割句、そのうえに立ち現れるもの」の二名。永島靖子は「最も古いお付き合いがあり、年齢も私に近い」といい、福田若之は「最も新しい友人で年齢も一番若い」という。その福田若之は、
(前略)折句とは、ある言葉をひとつひとつの文字に分けて、俳句なら五七五のそれぞれの頭や末に、順に詠みこむことをいう。(中略)右に挙げた『輪舞曲』の一句は(愚生:注「風車守無骨な髭で着ぶくれて」)、各句の頭文字が「ふ」「ぶ」「き」で、「吹雪」の折句として書かれている。こうなると、一句に織りこまれた吹雪を読むか読まぬかによって、風車を回す冬の風や、着ぶくれた風車守の趣もいくらか違ってくるだろう。(中略)
折句のほかに、割句というのもある。
言の葉のごと風花の舞ひて来し 『輪舞曲』
山からの風に乗って運ばれるなどして、晴れた空に雪が舞うのを風花という。一句は、まず、白くきらめくその風花をひとひらの言の葉に喩えたものと読める。人語を葉に喩え、喩えを喩えに喩え、さらにそのうつろう姿を舞に喩えー一句の喩はイメージの乱反射を起こし、まさしく冬の光のなかに舞う風花のように、めくるめくありさまだ。けれど、それだけではない。
割句は天地とも呼ばれ、ある言葉を二つに割って、一句の頭と末に詠みこむことをいう。これも。もとは折句から派生したらしい。右の句は、「こと」にはじまり、「し」に終わる。一句は「ことし」すなわち「今年」という語の割句であったというわけだ。「今年」という語は、とくに俳句においては、新年の題として、明けて迎えたその年を指す。(以下略)
と述べている。本修成には、精緻を極めた「自筆年譜」が巻末に置かれている。じつは、これを読むだけでも、興味が尽きない。また、同送された『三橋敏雄を読む』は、遠山陽子個人誌「弦」(第37号・平成26年~第43号・令和3年)に連載された作品評「三橋敏雄を読む」に加筆修正したものとエッセイ「先生のと時計」「先生の机」が収載されている。
集名に因む句は、
春濤の輪舞曲(ろんど)かの世の友の数 陽子
だろう。ともあれ、未刊句集『輪舞曲』より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。
孵らざる卵は転げ春の村 陽子
愛人もこひびとも老いさくらかな
芭蕉敏雄陽子申年永遠の春
日の丸を噛み一月の天袋
悼 中村裕さん 網走にて
君逝きて二夜のはぐれ流氷よ
雪虫を顔もて払ひ軍港へ
残照の雪嶺いづれ行くところ
帰去来(かへりなんいざ)星かざる冬欅
0番線ホームに待てばほととぎす
虫を聴く原爆以後の月日かな
人はなぜ鬼を討つのか冬怒濤
白い太陽駱駝は宙を嗅ぐしぐさ
さくらさくら逢はぬ日の尾がまた伸びる
月赤し馬齢怖ろし飯おそろし
果て知れぬ花の奈落やわが昭和
遠山陽子(とおやま・ようこ) 1931年、東京市淀橋区(現・西新宿)生まれ。
撮影・鈴木純一「①散りもみじ
②残るもみじ
③分からない」↑
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