たまさかの縁により、なそり氏より、安井浩司の『烏律律(うりつりつ)』(沖積舎・平成29年刊)の巻頭の句から付けたいくつかの脇句を賜った。「むそうの連歌」だという。なれば、その一端をここに、氏の許可を得て掲載し、本ブログの読者諸兄姉に供すものである。
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安井浩司が凄い
―と聞いて、句集『烏律律』を読みはじめたが、よく分からない。
草露や双手に掬えば瑠璃王女 ― 浩司
分からないというのは「負けた」ってことだ。
悔しいので、七七を付けてみた。
草露や双手に掬えば瑠璃王女 ― 浩司
膳所の姿見みのしろとして ― なそり
付けたところで、分からないことに変わりはない。
でもなんとなく楽になった。重しが取れた。
そこで思い当たった―これって「むそうの連歌」じゃないか。
むそうの連歌―
「夢想」と書く。
中世の頃、夢にはたびたび神仏が現れ、その啓示によって歌や句を得たものである。
これは利益・利生であるから、謝して連歌の会を催し、百韻を巻き、奉納した。
これを「むそうの連歌」という。
萎え足を浸さん秋野の菩薩泉 ― 浩司
ここまでひとり
いまからふたり ― なそり
授かった句が五七五の長句であれば、これを発句として、脇の句(七七)以下、九十九句をつける。
授かったのが三十一文字の歌一首か、七七の短句であれば、百句付ける。
これを「脇起し」と云う。
山寺や雉近づけば木魚吼ゆ ― 浩司
指呼のうちなる冬の銀漢 ― なそり
ふつうの連歌は発句(五七五)から始める(起こす)のだが、
「むそうの連歌」のばあい、発句は神仏の恵みである。
人は脇(七七)から起こす、だから「脇起し」というのだろう。
悪夢のような安井の句に七七を付ける。
これを「むそう」と呼ばずして何を「むそう」と呼ぶのだ。
アカンサス流れる風の縞模様 ― 浩司
実験室の窓に放てば ― なそり
しつこいようだが、安井の句は分からない。
世界の本質について語っているのかもしれないし、予言であるのかもしれない。
あるいは五臓の疲れかもしれないし、たんなる記憶の残滓かもしれない。
海の母ゆびに五つの孔雀貝 ― 浩司
慈悲の雫はとびとびにあり ― なそり
哲学的洞察・思想的探求のようで、韜晦・晦渋・衒学趣味・駄法螺にすぎないようでもある。
辻褄も合わない。お告げかもしれないが、寝言かも知れない。
これに七七を付けるのは解釈や鑑賞ではなく、夢から覚めるための手順だろう。
悲しみもあらん麦星の乙女座に ―浩司
開けて嬉しき御赦免の沙汰 ―なそり
こうやって脇の七七を付けたところで、次の第三・五七五を続ける者がいない。
勝手に始めたことだから、安井浩司が付けてくれるわけでもないし、見回しても自分しかいない。
百韻どころか、短連歌ということになる。正体なしの歌一首があとに残るだけだ。
ところで句集のタイトル―『烏律律』って何だろう?
春陰の寺や午枕のからすども ― 浩司
千の目で見る千一の夢 ― なそり
「大井恒行の日日彼是」によると
― どうやら道元の語録にある「一対眼精烏律律」の訳から推測すると、
この前にある「以前鼻孔大頭垂」とともに、いくら悟りをひらいても、
従前とおり鼻は大きな顔に垂れ、「両眼は変わらず黒々としている」
ということらしい。―
とある。
なるほど。意味は分からないが、一歩前進した。
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