2021年11月27日土曜日

安井浩司&なそり「草露や双手に掬えば瑠璃王女/膳所の姿見みのしろとして」(『烏律律』+脇)・・・




 たまさかの縁により、なそり氏より、安井浩司の『烏律律(うりつりつ)』(沖積舎・平成29年刊)の巻頭の句から付けたいくつかの脇句を賜った。「むそうの連歌」だという。なれば、その一端をここに、氏の許可を得て掲載し、本ブログの読者諸兄姉に供すものである。

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安井浩司が凄い

と聞いて、句集『烏律律』を読みはじめたが、よく分からない。 

 

草露や双手に掬えば瑠璃王女  浩司 

 

分からないというのは「負けた」ってことだ。 

悔しいので、七七を付けてみた。 

 

 

草露や双手に掬えば瑠璃王女  浩司 


 膳所(ぜぜ)の姿見みのしろとして ― なそり 

 

付けたところで、分からないことに変わりはない。 

でもなんとなく楽になった。重しが取れた。 

そこで思い当たったこれって「むそうの連歌」じゃないか。 

 

むそうの連歌 

「夢想」と書く。 

中世の頃、夢にはたびたび神仏が現れ、その啓示によって歌や句を得たものである。

これは利益・利生であるから、謝して連歌の会を催し、百韻を巻き、奉納した。

これを「むそうの連歌」という。 

 

萎え足を浸さん秋野の菩薩泉  浩司 


ここまでひとり 

いまからふたり  なそり 

 

授かった句が五七五の長句であれば、これを発句として、脇の句(七七)以下、九十九句をつける。

授かったのが三十一文字の歌一首か、七七の短句であれば、百句付ける。 

これを「脇起し」と云う。 

 

山寺や雉近づけば木魚吼ゆ  浩司 


 指呼のうちなる冬の銀漢 ― なそり 

 

ふつうの連歌は発句(五七五)から始める(起こす)のだが、

「むそうの連歌」のばあい、発句は神仏の恵みである。

人は脇(七七)から起こす、だから「脇起し」というのだろう。 

 

悪夢のような安井の句に七七を付ける。

これを「むそう」と呼ばずして何を「むそう」と呼ぶのだ。 

 

アカンサス流れる風の縞模様  浩司 


実験室の窓に放てば ― なそり 

 

しつこいようだが、安井の句は分からない。 

世界の本質について語っているのかもしれないし、予言であるのかもしれない。

あるいは五臓の疲れかもしれないし、たんなる記憶の残滓かもしれない。 

 

海の母ゆびに五つの孔雀貝  浩司 


慈悲の雫はとびとびにあり ― なそり 

 

哲学的洞察・思想的探求のようで、韜晦・晦渋・衒学趣味・駄法螺にすぎないようでもある。

辻褄も合わない。お告げかもしれないが、寝言かも知れない。 

これに七七を付けるのは解釈や鑑賞ではなく、夢から覚めるための手順だろう。 

 

悲しみもあらん麦星(スピカ)の乙女座に 浩司 


開けて嬉しき御赦免の沙汰 なそり 

 

こうやって脇の七七を付けたところで、次の第三・五七五を続ける者がいない。

勝手に始めたことだから、安井浩司が付けてくれるわけでもないし、見回しても自分しかいない。

百韻どころか、短連歌ということになる。正体なしの歌一首があとに残るだけだ 

 

ところで句集のタイトル『烏律律』って何だろう? 

 

春陰の寺や午枕のからすども  浩司 


 千の目で見る千一の夢   ― なそり 

 

大井恒行の日日彼是」によると 

 

― どうやら道元の語録にある「一対眼精烏律律」の訳から推測すると、

 この前にある「以前鼻孔大頭垂」とともに、いくら悟りをひらいても、

 従前とおり鼻は大きな顔に垂れ、「両眼は変わらず黒々としている」

 ということらしい。― 

 

とある。 

なるほど。意味は分からないが、一歩前進した。 


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撮影・芽夢野うのき「この先は葡萄坂です戻り坂」↑

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