2021年11月24日水曜日

正木ゆう子「いつの生(よ)か鯨(くじら)でありし寂しかりし」(「NHK俳句」12月号)・・・

 

 「NHK俳句」12月号(NHK出版)、今月の「わたしの第一句集」のコーナーは正木ゆう子『水晶体』。ほんのちょっぴりだが、愚生のことが出ているからと、わざわざ送って下さった方(浦川聡子)がいる。思い起こせば、『水晶体』の装幀は夫君の笠原正孝、活版で、瀟洒な匣入りの句集だった。そのエッセイのなかに、齊藤愼爾が連絡をくれ、宗田安正、攝津幸彦、仁平勝と初めて会ったという。そして、


  まもなく筑紫磐井の第一句集『野干(やかん)』が出ると、大井恒行(いおおいつねゆき)編集の「俳句空間」に攝津さんの書評が載る。しかし攝津・磐井の二人はまだ会ったことがない、というので、新宿で食事会をした。その席上で磐井氏の「豈(あに)」入会が決まり、後に「豈」編集長に。そして今は発行人であることを思えば、それぞれの第一句集と、齊藤さんからの電話と、そこから連鎖的に生まれた人間関係が、それぞれの今に繋(つな)がっていることを、面白いとも有難いとも思う。


 この席には、愚生もいて、筑紫磐井に会うのも初めてだった。その頃、すでに攝津幸彦は、肝臓を悪くして、酒が飲めなかった。愚生も仁平勝も酒には弱い。たしか正木ゆう子も「豈」同人に誘ったのだが、お酒で一晩中付き合ってくれない人たちとは、同人にはならないわ!と軽く袖にされたのだった。その頃は、夫君の絶対的信頼があつかった筑紫磐井が正木ゆう子のお守役で、これまた酒では全く乱れることのない筑紫磐井が、その夜も一夜、生贄としてお付き合いしたにちがいない。その頃はバブルの時代で、攝津幸彦は仕事柄、接待費が使い切れないと嘆き、そのお蔭て、同じメンバーで、すこしばかり、その消費のお手伝いをし、何度か、御用達だった料理屋、また、ゴーゴー(古いか?・・)を踊りに行ったことも、楽しい思い出だ。

 そのコーナーには、正木ゆう子の句と自句自解が施してあるが、冒頭の句を引用し、他は句のみをいくつか挙げておきたい。


  サイネリア咲くかしら咲くかしら水をやる

    句会で能村登四郎選に入り、俳句は自由に作っていいのだと知る。

    ひばりヶ丘(西東京市)の六畳間の窓辺。俳句を始めて間もなくの春。


  未婚にてふつとつめたき畳かな

  椅子といふ受身のかたち枯れ尽くす

  寒いねと彼は煙草(たばこ)に火を点ける

  ライオンは寝てゐるわれは氷菓嘗(な)

  双腕はさびしき岬百合(ゆり)を抱く

  桜前線父母を経て来りけり


 正木ゆう子(まさき・ゆうこ) 昭和27年、熊本県生まれ。



        撮影・鈴木純一「花柊ちいさく前にならえかな」↑

0 件のコメント:

コメントを投稿