2014年9月1日月曜日

坪内稔典・中之島5編『池田澄子百句』(創風社)・・・



帯には、「表現されているままに読む/澄子を知らなくても読める 現代俳句の一翼を示す池田澄子の100句を鑑賞」とある。
澄子百句選の内容は、個々の鑑賞者の眼に任せておけばよい。それほど強く思っているわけではないが、最近の愚生は、鑑賞文はあまり読まないけれど、百句などつらつら眺めてその俳人の選句を楽しむことはある。
「表現されてるままに読む」という帯文も、少し皮肉なメッセージが込められているようだ。
つまり、現代俳句の多くが、一句に表現されていることを第一義に読むことをしていないのではないか、ということであろう。もちろん、その余は、読む側の勝手?。また句から想像するのも勝手?だが、少なくとも第一義に「表現されているままに読む」ことは大事だ、ということ。
ともあれ、下世話な愚生は、この本でどこが気に入ったかというと、表紙の少女の写真がまず池田澄子が体操少女だったころのものではないかということ。また口絵の写真には、プライベートな夫君との、あるいは三橋敏雄とのツーショットを嬉しそうな池田澄子の表情とともに掲載されていることだ。朗読する澄子の写真は澄ましていていい(愚生も一度、公演にお邪魔したことがある)。
インタビューでは、「夫の言葉の使い方は、既製品ぽくて、私は既成の言い方を先ず消して、自分の言葉を使おうとする、ということは、思います。例えば新聞の見出しなど既製品の言葉(夫は新聞の編集をして見出しを付けるのが上手だったようです)に、私には見える。私はそれを全部チャラにしてから書きたいんですよ」というのが、澄子の作句の原点にある。
「俳句を書く」と言っているところあたりには、「詠む」という作句意識とは少し違うものがみえた。

     使い(つか)(べ)りして可愛(かわい)いいのち養花天(ようかてん)     澄子

                                   センニンソウ↑

0 件のコメント:

コメントを投稿