2014年9月14日日曜日

河野春三「母系につながる一本の高い細い桐の木」・・・



「MANO」(マーノ)第19号、加藤久子・小池正博・樋口由紀子・佐藤みさ子の同人4名の川柳誌だ。
そのうち、小池正博と樋口由紀子が「豈」同人である。
愚生は川柳について全くの門外漢なので、この二名の「豈」同人を通して、時折り、川柳の世界を覗き見させてもらって、恩恵を受けているのである。
今号の「MANO」では、小池正博が「河野春三伝説」を6ページにわたって執筆している。その冒頭に、「『現代川柳』は河野朱春三と中村冨二から始まった、というのが私の持論である」と書かれている。と、「おお、そうか」と愚生は、理屈なく納得してしまう。また後半に入るあたりで春三の「深き手負いの隕石となりて堕ちてゆく」「さまようて無明の使者は遠きかな」の句には、

  敗北の抒情であろうか。春三は時代の刻印を一身に受けている。「私」から「社会性」が消えたとき、情念川柳まではあと一歩にすぎない。

と述べるとき、「情念川柳」という傾向の川柳があるのか、と思い、しからば「情念俳句」という呼称があったのだろうか、と立ち止まってもみる。やはり、川柳独特の呼称なのだろう。さらに、

 春三の中にあった私性・詩性・社会性のうち、社会性川柳は松本芳味の死によって、それ以上展開することなく破産した。私性は「思い」の表出という限定的な川柳観に特化することによって矮小化された。詩性は川柳性との関係が曖昧なまま放置され現在に至っている。

と、書き継がれるとき、小池正博の現在の川柳観がよくうかがえる。そして、以下のように言挙げされるとき、現代川柳はまだまだ希望を胚胎している詩形なのだと思わされるのである。

 「詩」は抒情に限定されるものではなく、批評性やイロニーも含めた「広義の詩」としてとらえる必要がある。萩原朔太郎の詩論と西脇順三郎の詩論を統一したところから、現代川柳は書かれるべきではないか。
 そろそろ私たちは真の意味で現代川柳をスタートさせなければならない。

以下に、今号から、4名の各一句を挙げておこう。

      水っぽい体になって箱を出る        加藤久子
      明るさは退却戦のせいだろう        小池正博
      拳銃をもったら鼻をさわらない      樋口由紀子
      せんそうはひとはしらからはじめます  佐藤みさ子 


                     ジュズ↑


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