2014年10月13日月曜日

「散らざれば六十七や幸彦忌」恒行・・・・

                               
                               ↑96年3月、初めて新居を訪う。幸彦、夫人資子。

今朝、台風19号が九州に上陸した。夕刻には関東も強風域に入るらしい。
今日は攝津幸彦の命日である。1996年10月13日、49歳で亡くなった。元気だったころ、本人は冗談めかして、南国忌か南風忌がいいな、と言っていた。攝津幸彦の会社の同僚たちは南風の会というのを作ってその後の文集や全句集の出版などに尽力してくれた。

   南国に死して御恩のみなみかぜ      幸彦

その折の愚生の追悼句は、

   南国忌と言いて幸彦秋に死す      恒行   

だった。忘れもしない10月10日(体育の日)に、順天堂病院に入院したのを聞いて、酒巻英一郎、筑紫磐井、仁平勝とともに見舞ったのだ(愚生は客商売のため夕刻まで職場を離脱・・)。その折、恒例となっていた11月の「豈」句会兼忘年会の相談をした。病院近くに会場を借りて、攝津幸彦は病院を抜け出して忘年句会に参加する手はずだった。それまでに、「豈」同人にも知らせて少しずつ見舞いにきてもらうことにもした。
その企画された11月30日(豈は二か月に一度、奇数月最終土曜日が句会だった)が、まさか攝津幸彦を偲ぶ会になろうとは誰も想像することはできなかった。それほど愚生等にとっては急逝であった(ただ一人、夫人の攝津資子を除いては・・・)。
だから、入院したばかりの攝津幸彦が、他の人の見舞いはもう少し体調が回復してから、というのも聞かず、資子夫人は「豈」事務局・酒巻英一郎に託して、愚生等に幸彦を見舞うように計らったのだ。 
死後、攝津幸彦はその作品とともに成長し、いまでこそ,すっかり有名になっってしまったが、当時、総合誌は「俳句研究」96年12月号を除いては追悼の記事など、ページをさいたところはなかった(同人誌のいくつかを別にして)。それほど俳壇的にはマイナーな存在だった。 つまり、攝津幸彦はいわゆる俳壇の政治的な結社支配から、遠い存在だったのである。
攝津幸彦の死後、求められて愚生は、「ふらんす堂通信」72号(97年4月)の末尾に以下のように記している。

  今、私たちは攝津幸彦を失った。しかし、かつて、折笠美秋が高柳重信の死に際して言ったと同じように、俳句形式をして攝津幸彦を失わしめてはならない、としきりに思うのである。  

攝津幸彦、存命なれば愚生より一歳年上の67歳である。


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