2016年10月6日木曜日

今井聖「秋日の鶏舎自動給餌器折り返す」(「街」NO,121)・・・



「街」NO.121は、創刊20周年記念特集号である。
その特集は「師の条件・弟子の条件・仲間の条件 あなたはどこにいる?」。
鼎談に大串章・正木ゆう子・今井聖。評論に上田信治・太田うさぎ・黒岩徳将・西原天気・阪西敦子・西村麒麟・藤井あかり・堀田季何・北大路翼・髙勢祥子と若手を多く起用しての豪華メンバーというべきか。いつまでも若いと思っていた今井聖もいまや愚生とさして変わらない年齢だった、と改めて思い、年月の速さを思うのである。いつもながらの大串章の誠実さと、ちょっぴりわがままな正木ゆう子、愛すべき屈折の人・今井聖の鼎談は、彼等の来し方が伺えて、面白かった。
例えば、大串章の発言、
 
  私は日本鋼管という会社に入ったんですけど、本当は林火が横浜に居たからなんです。会社の入試のときは絶対言わなかったですけどね。日本鋼管は当時は川崎市にしか製鉄所がなかったんですよ。で、日本鋼管に入ればその近くに住めるだろう。そうすれば、大野林火のところで俳句を見てもらえるだろう。

師を選ぶとは、こういうことだろうな、と思う。生活、人生も賭けてしまうものだ。愚生は、ついに師をもつことが出来なかったので、半分は羨ましい気分がある。

評論では、北大路翼「敗北の味」の、

 敗北を恐れるくらいなら表現をやめたほうがいい。安易に手に入る勝利に未来はない。敗北の悲しさ、つらさ、怒りこそ僕らの俳句の糧だ。

これくらい威勢がいい方がよいが、少年老い易く・・・もはや、その恐れの方が愚生には襲いかかっている。

藤井あかりは自らに引き寄せて、

 自分の心を突き動かすものがある限りペンを執る。失くなれば手放す。また突き動かされれば、また執る。どこまでもシンプルなことだと思う。

とシンプルでいい。
 
寺山修司は「賭博には、辞世では決して味わえぬ敗北の味がある」と言ったとか。まあ、俳句形式を選ぶことは、賭けであることには間違いない。
ともあれ、それぞれの評者が与えられたテーマ(これがすでに屈折しているのだが)によく答えようとした努力に敬意を表したい。また、「街」の連衆の25年間の奮闘、努力に拍手を贈りたい。
 


                  ヨウシュヤマゴボウ↑

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