2017年2月1日水曜日

伊丹三樹彦「大枯野兵馬いく夜も鉄路の上」(『わが心の自叙伝』)・・・



伊丹三樹彦、1920年兵庫県伊丹市生まれ。本名・岩田秀雄。別号写俳亭。
『わが心の自叙伝』(沖積舎)は、神戸新聞に連載されたものを一本にまとめた著書だが、現在もなお連載は継続中だという。巻末には新作「思郷三木」50句と「自筆青玄前記抄」が収められている。集中「乳房願望ー母乳に記憶のない幼少時」に、

 思えば僕のペンネームは、三木町の町名ではなく、母校名に由来している。

とある。そして、「初めての句会ー仰ぎ見た新興俳句の先達」では、

俳句を作り始めたのは十三歳の正月だ。日記に「予は俳人として世に立たんと欲す」などと大袈裟に(おおげさ)に決意を書いた。(中略)
仕舞屋で十人足らずの連衆が座敷にいた。当主の山本雄示(ゆうじ)が指導格だった。
 計らずも、この人の名は日野草城主宰の俳誌「旗艦」で見覚えがあった。度の強い眼鏡をかけ、柔和な表情の持ち主で着物姿だった。
  青い蛾(が)が粥(かゆ)の渚(なぎさ)で遊んでいる
 そんな自作の色紙を見せてくれた。まさに新興俳句の先端を行く作風ではないか。こんな鍛冶町の一隅に、かかる異色俳人がいたのだ。

と回顧している。三樹彦は、その後の縁で長谷川かな女の「水明」で岩田笛秋(てきしゅう)の名で、年少俳人として可愛がられる。恩義ある「水明」に配慮して「旗艦」に入る際に、ペンネーム変えて別人になるのだ。それが、伊丹で生まれ、三木町で育ち、母校の小学校が三樹小学校だったから「伊丹三樹彦」になった。当時の「旗艦」には三樹彦のように変名による出句者が少なくなかったという。

俳人の廣岡微風、詩人の鷲巣繁男や千早耿一郎、写真家の芳賀日出男、映画監督の和田矩衛(のりえ)ETC.

とある。そして、

三樹彦の実母の一文字しんのこと、実父は岩田幸吉。宝塚市は小林字堀切の農家の次男だった。婿養子としての初婚再婚も続かぬまま、三度目には伊丹で芸者をしていた増井つねと同棲するに至った。生後間もない僕は、つねの父母である三木の増井藤太郎、キク夫妻や、妹夫妻の増井玉枝、栄吉の許に預けられた。臍でつながったしんを知らぬまま育った。しんとの初対面は軍隊時代になる。

と記している。波乱の幼少期である。

   臍覗(ほぞのぞ)く 薄倖の母在りしこと       三樹彦

その伊丹三樹彦と愚生の初対面は愚生が現代俳句協会に入ったばかりの頃(20年くらい前かな?)、総会後の懇親会で、挨拶をしたら「君は、俳人らしく見えないな・・・」と返ってきた。もっとも愚生よりもっと俳人らしく見えなかったのは、カメラを二つぶら下げていた当の伊丹三樹彦のほうだったと思うのだが・・。



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