2017年2月17日金曜日

池田澄子「箸置や冥途も年を越すだろうか」(「WEP俳句通信」96号)・・・



総合誌を眺めると、愚生は「豈」同人なので、どうしても「豈」同人の作品や文章を偏愛してしまう。掲載記事の中でも一番読み応えがあって、かつ作品が良いようにおもってしまう。もっとも贔屓の引き倒しにはならないとおもっているが・・。
「WEP俳句通信」の今号では、池田澄子特別作品25句「嬉し」に注目。
 
   膝で折る枯枝の香と音や幸       澄子
   日脚伸ぶとりのお墓にした石に     
   
論では、筑紫磐井「新しい詩学のはじまり(七)ー社会性俳句の形成②/私の伝統論」。
それを、私的な体験と断ってはいるが、1971年頃、

 伝統俳句ブームが生まれるのは、伝統俳句の枠組みの中で、今までの古い伝統俳句(客観写生・花鳥諷詠)でもなく、前衛俳句でも見られなかった新しい俳句が生まれ、それが人々を引きつけたと言うべきなのである。私は、それを「新しい抒情」だったとみている。

その「新しい抒情」の例句を幾人かのいわゆる伝統系の俳人を挙げているが、愚生はまず飯田龍太と野見山朱鳥あたりに指を折りたい。対極にいたのは,いわゆる前衛系と言われた高柳重信だったろう。
あと一人の「豈」同人は、北川美美の「三橋敏雄『眞神』考⑨ 戦火想望俳句と敏雄」である。美美は生前の三橋敏雄に会ったこともないのに、戦前の資料も駆使しながらの敏雄論の展開は力作に値する。愚生よりはるかに若い俳人なので、俳句の状況認識については、一言添えたい部分もないではないが、最初から最後まで新興俳句の人であったという三橋敏雄への想いは正しいと思う。

 リアリズムを超える無季句は、この戦火想望俳句という踏み絵を踏まなければ生まれなかったとも言える。弾圧によって筆を折った先師の憑りつかれた無季への執念、怨念めいたもの・・・そんな背景を知ると、『眞神』冒頭に配される〈昭和衰へ馬の音する夕べかな〉〈鬼赤く戦争はまだつづくなり〉が何か象徴的ですらある。

と記されている。先師とは渡辺白泉である。戦火想望俳句への批判は、そのまま3.11以後の俳句にも、震災想望俳句として、その批判・反批判が亡霊のように現れた。


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