2017年2月13日月曜日

島田牙城「馬驅くる野を燒かんとしためらひをり」(『俳句の背骨』より)・・



『俳句の背骨』(邑書林)、島田牙城の初の単行散文集である。還暦だという。
愚生が最初に彼の世話になったのは、彼が今は無き牧羊社「俳句とエッセイ」の編集部にいた頃のことだ。彼がまだ二十歳を少し出たばかりのころだったかも知れない。愚生がいわゆる総合誌に最初に書いた散文、飯田龍太論の編集担当者だったのだ。詳細は覚えていないが、龍太が何かの賞を受賞して、そのお祝いの企画だったように思う。若かった愚生はそのお祝いに相応しい論を書いたとは到底おもえない。それでも載せてくれた(後日、クビを覚悟したとも言っていたような・・・それとも龍太が怒ったのであったか・・・)。
それ以来、さまざま彼に世話になってきたが、その恩義には、愚生の非力ゆえに報えていない。
本著中「峠の文化としての春夏秋冬ーあるいは『ずれ』といふ誤解について」では、二十四節気は「決め事としての季節」観なのだ、愚生もそう思い始めていたところだったので、素直に納得した。それゆえまた、決め事にしかすぎないのだ、ということも。「ずれ」というからズレる。立春は寒いのだ。それ以上でも以下でもない(年齢を加えてきたり、とくに俳人は季節を先がけ、先取りするよう洗脳されてしまっているような・・)。
ともあれ、波多野爽波や田中裕明のことを語る牙城の語り口は愛に包まれている。
牙城が「龜が哭いた」で、

  どんな例を持ち出してもいいけれど、彼の俳句には、季語を充分に咀嚼してゐる者ににしか近寄れない奥行きがあるのだ。爽波俳句を分からない。難しいといつて遠ざけた俳壇と、裕明俳句を老成してゐるといつて遠ざけようとしてゐた俳壇の趨勢は、同じ根にあると僕は思つてゐる。 

というとき、愚生は(俳壇には疎ったのかも知れないが)、ほんとうにそうだったのか、と少し不思議に思うのである。攝津幸彦とおなじように、かくれフアンも多かったのではなかろうか、そうでなければ、彼等の死後の作品の伝播はありえない。





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