2019年7月13日土曜日

小島一慶「走り梅雨星野高士はうつむかず」(『入口のやうに出口のやうに)・・・



 小島一慶句集『入口のやうに出口のやうに』(ふらんす堂)、集名に因む句は、

  入口のやうに出口のやうに夏至      一慶

 である。序は星野高士、「序の付録」と題して阿川佐和子。少々長くなるが引用する。星野高士は、

 一慶さんとの出会いは、今も、三十年以上続いている「五色会」という、私にとっては、楽園のような句会の横浜吟行であった。何と言っても一慶さんは、私の青春時代を共に過ごさせていただいた、有名なラジオパーソナリティの草分け的存在。そんな尊敬している彼が、その時に、よく俳句という文芸に出会ってくれたと、神に感謝だ。又、出会うだけでなく、更に進化しつつ常に探求心を向上させて俳句に向き合ってくれているのは、大変に有難い事である。要するに、一慶さんは俳句が好きなのである。いや、好きを通り越して、彼は、俳句に夢中なのである。

 と記し、その初吟行時、本人はビギナーズラックといいながら、特選に選ばれた句が、「波立ちて潮の香もなし春嵐 一慶」である。また、阿川佐和子は、

 (前略)どうせ私はダメ娘ですよお・・・・・。優秀な兄の下でひねくれまくる妹のように、私はヒーヒー泣いてばかりいた。そんな私を見かねたか、一慶さんがある日突然、私に告げた。
「スタッフルームにいるときは、常に秋元さんの隣に座りなさい」
そんな恐ろしいこと、できませんよ。なるべく目を合わさず、存在を消してたいと思っていたぐらいなのに、
「いいから、隣に座りなさい」
 この一慶さんの一言のおかげで、私と秋元さんの関係性に明らかな変化が生まれた。
 (中略)
 一慶さんのさりげない話にはいつも物語がついてきた。名もなき草を取り上げても、銀杏の赤ちゃんを見つけても、旧友の思い出を語るとき、変なプロデューサーにあだ名をつけるとき、一慶さんの言葉の後ろにはいつもワクワクするような景色が広がった。

 その一慶さんは「あとがき」に言う。

 アナウンサー歴五十年。
 俳句歴は十二年目となる。
 同じ言葉を表現方法とするが、アナウンサーの言葉と俳人の言葉は、全く、別物である。アナウンサーの言葉は、ひたすら外へ向かう。同じものを描写するにしても、アナウンサーは、瞬時に反応し、次々と言葉にして行く。間が無い。沈黙が怖い。興奮は興奮のまま、表現が、オーバーになることが多い。(中略)
 一方俳人の言葉は、ひたすら内へと向かう。一旦、言葉を沈潜させ、熟成させ、表現してゆく。間を大事にし、沈黙を怖れない。
 僕が俳句に夢中になったのは、これまでと正反対の言葉の表現に魅了されたからに他ならない。

 そして、奥方の検査に付き添いのつもりで行ったCT検査で、「奥さんに問題ありません。ご主人の方は、重篤な肺がんです」と告げられる。昨年の七月六日のことだ。

  告白にとほき告知や星祭     

 ステージ4の宣告に、少しも動じない自分がとても不思議だった。(中略)それでも、家族は、相当のショックを受けたようだ。特に子供たちにとっては、正に晴天の霹靂ー。急遽、句集としてまとめようと言うことになった経緯(いきさつ)である。

 としるされている。愚生はこれ以上のことは知らないが、本復を祈りたい。ともあれ、いくつかの句を以下に挙げおこう。

  昼寝覚この世は音に満ちあふれ
  グァム島のなまこのごろんごろんかな
  極月や棒線で消す住所録
  建国日キャベツの芯までやはらかし
  踊の輪欠けたるところ闇が埋め
  ひぐらしのこゑ父母を知らぬ声
  鳥帰る刹那の風を見逃さず
  一世(ひとよ)では足りぬこの世や白牡丹
  鬼虎魚いやいや笑ふつもりなし
  追いぬいてゆく滴りはなかりけり
  この世だけつながる電話いわし雲
  凩の夜空つまづくもの多し
  九天を一夜支へて霜柱
  うるむ目にかへす目のなし春の風邪
  葉桜や柩に軽きものはなく
  我のなき一と日が見たし百日紅
  円熟に果てのありけり柘榴の実
    チャコちゃん(白石冬美さん)逝く
  ひとり死にひとり生まるるさくらかな

 小島一慶(こじま・いっけい) 1944年、長崎県生まれ。


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