2019年12月27日金曜日

秋尾敏「浮かびきれない氷あり夜の森」(『ふりみだす』)・・

 


 秋尾敏第5句集『ふりみだす』(本阿弥書店)、集名に因む句は、

  学校の柳が髪をふりみだす     敏

である。長い「あとがき」があり、その中の部分、長くなるが引用しよう。

 (前略)だとすれば俳句は、ネット上のデジタルフォントに移行することによって、近代俳句の古臭い部分を捨て去っていくことになるのだろう。子規や虚子や碧梧桐の俳句が、活字によって、古臭い旧派の月並臭を消し去ったように。
 明治の筆文字は、月並調や教訓調を作り出した。同様に近代俳句は、活字文化の中で、さまざまな差別構造を生んできた。それらに気づき、払拭する機会が、ネットというメディァによってもたらされたと考えてみるべきかもしれない。ネット上のデジタルフォントは、同時的にあらゆる立場の人の閲覧を可能にするメディァであるから、一部の人を差別する表現には、誰かがすぐ気づくことになる。(中略)
 俳句をこの国のドメスティックな文学形式と捉えることは誤りである。そもそも俳諧は和歌と中国文学との出会いによって生まれ、近代俳句は、西洋文学の価値観との相克と融合によって形成されたのである。俳文芸は、常に国際的であった。グローバルな視点からの国民国家論やポストコロニアル批評が俳句批評に応用されなければ、戦後俳句は、真の姿を表すことはないだろう。(中略)
 もはや時代は近代ではない。未だ名付けられず、ポスト・モダンと呼ぶしかないこの時代の俳句をどうしていくのか。それが、私の考えることの全てである。(中略)
 俳文芸は、古典に対しても、社会状況に対しても、〈軽やかなつまみ食い〉をし続けてきた。だから私も、そのように俳句を詠み続ける。古典も古語も、近代的自我も写生も、俳句はすべて〈軽やかなつまみ食い〉をすればいいのである。
 そうした俳句が〈浅い〉ということにはならない。ポップに〈軽やかにつまみ食い〉する俳句こそが、もっとも深い表現をし続けられると、私は信じている。

 と、述べている。そして、本句集は、その〈軽やかなつまみ食い〉によって〈ふりみだす〉深化をとげている。ともあれ、集中より、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

   人間に整えられて麦の秋
   幾万の螢昭和という谷に
   破綻の町よ林檎にも指紋は残り
   原発に下萌ゆるとは怖ろしき
   どの足も許して長し春の道
   噴水を落ちるばかりと見てしまう
   土手に泥流コスモスの決死隊
     「軸」五十周年
   薫風の内在律や半世紀
      金子兜太氏追悼
   ふかぶかと落暉末黒野は無中心
   客観に主観は並び寒い書架
   夜の凩捜しものなら手伝おう
   雷兆す体よ僕に付いてこい

 秋尾 敏(あきお・びん) 昭和25年、埼玉県吉川町(現、吉川市)生まれ。



          撮影・一読者より ↑

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