2021年2月7日日曜日

らふ亜沙弥「初雪や袋綴じなるダンディズム」(『世界一の妻』)・・・


  らふ亜沙弥『世界一の妻』(創風社出版)、帯文は坪内稔典、それには、


 らふさんは紫夫人。衣装も持ち物も車も紫づくめ、唇も爪もだ。しかもこの紫夫人、フットワークがととても軽い。ランチの時間に京都に現れ、夕方にはもう横浜を歩いている。〈柿喰えばウエストあたりが性感帯〉〈禁欲のピンクのチョコの暮の秋〉などという俳句では、柿もチョコも紫夫人の身体感覚の現象みたい。自分の世界を思いっきり拡げながら、彼女はつぶやく。「私は大変なのである」(本文127頁)。


 とある。その127頁はというと冒頭と巻尾であるかは別にして、「枇杷の花」の章に、


   シクシクとじくじくとくる春のガン     亜沙弥

   あらたまや元気に病気しています


 の句が置かれている。で「私は大変なのだ」のエッセイの冒頭には、


 四年目を迎えた。がん告知を受けた六四歳の二月から。(中略) 

 私が手術も抗がん剤もしたくないと夫につげると、

「僕が治すから二人で頑張ろう」

わたしはどんな自然治療が待っているとも知らずに喜んでいた。

夫がすすめるままにアメリカ製のバイオマット、足湯器、枇杷温熱器、といった機械ものの治療の他に、整体と枇杷温灸に通いだした。どれも保険がきかないので、永い間掛けていたがん保険の一時金をもらおうと保険会社に電話を入れた。しかし、病院での治療が始まらないと保険は一切おりませんと向うは言い張る。病院のお墨付きがあると主張したが無理だった。

 こうなりゃ仕方が無い、抗がん剤治療でも受けてみるかと覚悟したものの、まさか主治医に保険金目的とは言えず、神妙な面持ちで「抗がん剤を受けたいと思います」とお願いしたのだった。

 細かい説明を受けた後「当日は付け爪を剥がして来るように」との言葉に「これは生爪です」ときっぱり答えた。

 六四歳の誕生日に、とにかく、とりあえず生れて初めて抗がん剤治療を受けた。(中略)

自然治療二年目に入ったころのこと。

枇杷の葉温灸を習得した夫が、毎夜、温灸をしてくれるようになった。と同時に他の治療もふえ、私は息苦しくなり始めていた。(中略)

 ついつい、これ以上はもう無理、もうどうでもいいから一人で暮らしたい、家を出る。などと喧嘩を買ってしまっただけならまだ可愛いが、貴方は自分のためにやっているのであって、お前のため、ためと押し付けないでほしい。とまで言ってしまった。

数日、お互い口をきかない日々が続いた。

その間も押し黙ったまま一時間以上の枇杷温灸は続くのだった。(中略)

四年目を迎えたというものの、この三年は、白血病を克服した九一歳の母や、息子や娘、そして俳句の仲間に心配をしてもらった。(中略)大学一年生、高校一年生、小学一年生、五歳の孫たちの将来を見て見たい、九十一歳の母より先にいくわけにはいかない。

 そしてそして、がん告知より数カ月間、隠れて泣いていた夫をおいてはいけない。

 私は大変なのだ。


 がんはステージⅢの乳がん、すぐに全摘手術をいわれたが、手術を止めた。ただ抗がん剤も副作用など、二度目の当日にドタキャン。二枚目の若い医師が前向きに手術を考えて、というが、再び自然治癒療法に戻る。現在も、無農薬玄米正食らしい。とはいえ、若き日々のエッセイには、愚生の近しい人が幾人か登場する。愚生のことを、恒行(オオイ・コウコウ)と言っていた加藤郁乎、句集『風の銀漢』の跋文を書いてくれた福島泰樹、愚生は福島泰樹の第一回短歌朗読の会に、確か明大前まで出かけている(録音されたライブテープには愚生の歓声の指笛が偶然入っている。まだそのときは絶叫コンサートという命名になっていなかった)。そして、今は無き銀巴里や野村秋介のことなど・・・。集名に因む句は、

     

   世界一の妻やってます心太   


 であろう。ともあれ、以下に集中よりいくつかの句を挙げておきたい。本復を祈りながら・・。 


   野アザミの一方的に生きている

   何もしていないのに石楠花に雨

   観念の顔みなおなじ実むらさき

   階段を落ちる寸前月つかむ

   住所のない名刺をもらう桜の夜

   耳たぶをさわる癖あり花あけび

   一瞬とか束の間とか枇杷の花

   悲しいほどに離れている黒豆

   大根引男殺して水注ぐ

   男+女=冬霞

   リンゴ送りました好きだから 

   

        撮影・鈴木純一「月朧すきなひとには左側」↑

0 件のコメント:

コメントを投稿