2022年5月7日土曜日

江田浩司「やさしさは海鳴りの時期(とき) エンブリオ翼の生えたメランコリック」(『メランコリック・エンブリオ/憂鬱なる胎児』)・・


  江田浩司第一歌集『メランコリック・エンブリオ 憂鬱なる胎児』(現代短歌社・第一歌集文庫)、文庫版解説は神山睦美、他に、再録の栞文に、岡井隆「江田君に」、谷岡亜紀「私・言葉・世界」、藤原龍一郎「知性の自慰」。巻末エッセイ・江田浩司「他者の声」が収載されている。また、集中、903首とともに33句が収められている。1996年7月2日、37歳の誕生日に記されたエッセイ「他者の声」には、


 自分の創作の原点を探ろうとする場合に、どうしても目を逸らすことのできない一つの思い出がある。その思いでは傷(いた)みとなって、静かな水の流れのように消え去ることはない。そして、その水の流れには、さらに静かな淀みがあって、いつのまにか得体の知れない歪(いびつ)な生き物が住みついていたようだ。生き物の吐く泡は、僕にさまざまな苦悩と同時に感傷を与えつづけ、生き物自体すこしの間も同じ形のままでいることはなかった。(中略)

 その得体の知れない生き物を、仮に名づけるならば、「憂鬱な胎児」とでも言うことができるだろうか。「憂鬱な胎児」は、今も僕の中でさまざまな声を発しながら、誕生を待ち望んでいる。(中略)

 今、僕は、自分の”内部の他者”から、”外部の他者”への通路を、半歩でもいいから進んでゆきたい。この「憂鬱なる胎児」の誕生に立ち会いたい。たとえ僕が父としてふさわしくなくとも・・・・。


 とあった。あと一つ、解説の神山睦美の論のごく一部を、紹介してこう。


 (前略)それはともあれ、「メランコリック・エンブリオ(憂鬱なる胎児)というタイトルの言葉が明らかにするのは、喩が想像力の解放であるといった意味にとどまらない、メタファーそのもののありかたなのである。喩とは、いわば、存在そのものにかかわる表現にほかならない。江田浩司のうたの優れたメタファーは、すべて、存在の根源から発せられたものといえる。私たちは、どこからやって来たのか、そして私たちが負わされている苦しみは、どこに由来するのかという問いから発せられているといっていい。(中略)

 さらに存在の苦しみは、宿命的なものに帰結し、反復されるとしたうえで、そのような「宿命強迫」を解き放つものは、「死の光」といっていいような、はるか彼方からやって来るものにほかならないと述べながら、この「死の光」こそが、私たちをタナトス(死の衝動)から解放してくれるものではないかと暗に示唆している。

 江田浩司のメランコリック・エンブリオもまた、もし解き放たれるとするならば、このような「死の光」によってではないか。短歌表現とは、江田浩司にとって、そこにいたるまでの道すじなのである。


 ともあれ、集中より、わずかとなるが、いくつかの歌句を以下に挙げておきたい。


 君も水われも水かな掌(て)の中に囲いてやればさんざめく乳房(ちち)  浩司

 あんなにも二枚の舌が父さんを呼んでる俺は父さんじゃない

 神々の手淫に虚(うつろ)な河生(あ)れて世界の終りに葦の耳かな

 春は哭(な)け、まだあたたかき一筋の血が描く詩篇蒼白のロシア

 アウシュビッツ飼われし犬よ監視兵にユダヤを咬めと教えられし犬

 俺の中で咲いている雨 民族は三位一体を濡らしてゆきぬ 

 溶鉱炉をいま出たばかりの肉体に全存在を対峙さすべし

 民主主義の敗北が木にぶら下がりきりきり回る影も回れり

 戦後日本・僕らの世代はオナニスムどんな思想もやさしく抱くさ

 夕空の櫂(かい)こぎゆくは月草のかりなる命曳きゆくわれら

 悔しさの距離に海見ぬ雲雀の死ヴェーユは完膚なきまでヴェーユ

 寒晴れの光の中を歩みたる片耳の犬 わたしは飢える

 自慰をする葉脈のような日記から救われ難き過去は寒晴れ

 

  わたしが孵す空一つあり天球儀

  火傷(やけど)せしロバなるわたし桜散る

  家族はじけ桃の量感残りける 

  混血の卵は北へ転がりぬ

  ミシマの喉に覗く卵やホリゾント

  その肋霜積むごときシーレの絵

  地の傷のごとき思想や冬の河

  用のないわたしのしっぽが垂れている


江田浩司(えだ・こうじ) 1959年、岡山市生まれ。



       芽夢野うのき「消えて逝く時のかたみよ雪柳」↑

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