2017年3月11日土曜日

石牟礼道子「祈るべき天とおもえど天の病む」(『俳誌要覧ー2017年版』より)・・



『俳誌要覧・2017版』(東京四季出版)の生駒大祐「受賞作を読もう『俳句が俳句であったために』」に以下の記述がある。石牟礼道子句集『泣きなが原』について論じられたものだ。

 僕にとっての「その言葉が俳句であるかどうか」の必要条件は「継承性があること」である。継承性とは、その作品が過去の俳句作品から何かを引き継いで一句を成立させているということだ。そう考える理由には積極的な理由と消極的な理由がある。(中略)
 これらの理由において、残念ながら僕は本句集に収められた言葉たちを俳句とは呼べない、ということになる。これらの言葉は詩としての象徴性や含意を色濃く保持しているものの、過去の俳句からの継承性に極めて欠けている。これは優劣の問題では全くない。これらの言葉は優れた詩ではあっても、俳句であると胸を張って呼べないということだ。 

他の賞の受賞句集を評した分量よりもはるかに突出した分量を費やしての自説の開陳である。かたくなにではなく、俳句の言葉とは何か、という問題に触れようとしている。それは同時に俳句とは何かという問いでもあろう。
あるいはまた、上田信治は「『中心が見えない』で、

 二〇一六年の俳句界は、この二十余年変わらない求心性の低下の過程上にあり、ジャーナリズムは序列的秩序の追認においてのみ機能し、同時代俳句の可能性・方向性を示すことに成功していない。

と、あらためて指摘している。
ともあれ、ここでは、紹介しきれないが、本年『俳句総覧ー2017版』の批評の水準といい、現在の俳句界を展望する執筆陣、多くは若手の起用だが、各執筆陣がそれらによく応えていよう。その論評の分析力において、他の俳句総合誌の年鑑類を間違いなく凌駕していると思われる。
以下に、その執筆者とタイトル(のみだが)を紹介しておこう。
岸本尚毅「書き手と読み手の『共進化』」(【平成二十八年の俳句界】)。青木亮人「目利きと、承認とー俳誌の『評論』、そのいくつか」、外山一機「しずかで、たしかな仕事たち」(以上【評論回顧】)。〈川柳〉柳本々々「現代川柳を遠く離れてー任意のnとしての二〇一六年」、〈連句〉小池正博「顕在化する連句精神」、〈研究〉安保博史「蕪村研究最前線の動向(以上【俳文学の現在】。黒岩徳将「新たな地平が見えた」(【甲子園をふりかえる】)。堀下翔「見通しが変わった年」、鴇田智哉「私性を巡って」(以上、【いま、短歌が気になる】)など。



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