2017年3月29日水曜日

川合大祐「中八がそんなに憎いかさあ殺せ」(「川柳カード」終刊号より)・・



「川柳カード」が第14号で終刊する。発行人・樋口由紀子、編集人・小池正博、ともに「豈」同人でもある。愚生のような川柳の門外漢からすると、じつに貴重な川柳の窓だった。俳句が常に俳句とは何か?を問い続けなければ、たちまち俳句が沈んでしまうように、川柳カードの同人たちも常に川柳とは何かを問い続けていた雑誌だったように思う。とはいえ、雑誌は終わっても、これも旅立ちである。個々の作家の歩みは今後とも続くにちがいない。たぶん「川柳カード」としての一定の使命と役割に一区切りつけようということだろう。
 本号の柳本々々「川柳は支えないー兵頭全郎・川合大祐・岩田多佳子ー」では、以下のように述べた部分がある。

 俳句は〈風景〉を描くが、川柳は、人間を描く。これはよく流通している言説である。たしかに、川柳は〈人間を描く〉かもしれない。しかし、、これまでの全郎や大祐の句をみてもわかるように、そうした一般的な言説は疑ってみる必要があるように思う。
 《川柳は人間を描かない》ことを本懐とするかもしれない、と。むしろそのかたちで《人間を描く》。 (中略)

 今回見た三冊の句集を通していま私は思うのだが、川柳が川柳を描かないことこそ、川柳が川柳に似なくなるまさにそのしゅんかんこそが、もっとも川柳的な瞬間なのではないか。川柳というダイナミズムはそこにこそあるように思う。

上記三人の句集の句を以下に、いくつか孫引きさせてもらう。

  ドアノブの無いトイレから漏れる水    兵頭全郎
  変わる季節のどこにも変わらない風景
  」あるものだ過去の手前に未来とは    川合大祐
  こうやって宇宙をひとつ閉じてゆく」
  喉の奥から父方の鹿 顔を出す      岩田多佳子
  エンジンの掛かったままの木が並ぶ



  
 

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