宇多喜代子第8句集『森へ』(青磁社)、2014年から2018年の句を年別に収めてあるが、句集名ともなっている「森へ」と題された一連の24句が2017年の末尾に収載されている。
その一連の冒頭の句は、
蛇の手とおぼしきところよく動く 喜代子
である。以後には争いの現実に取材したと思われる句が並ぶ、例えば、
霧深き森に隠そうシリアの子
日光月光ここまでは来ぬ弾礫
八月に焦げるこの子らがこの子らが
こうした句を読むと、師の桂信子が新興俳句に連なる志を秘めていたように、宇多喜代子もまた、その志を想い、いわば新興俳句の系譜につらなる末裔であることを思わせる。ともあれ、本集よりいくつかの句を以下に挙げておきたい。
花冷えの石を連ねて山の宮
秋彼岸形見の時計遅れがち
水分の神か真白に草氷柱
転がつて毬は方位をあいまいに
終わりなき戦に梟を送り込む
草の実のとりつく者らみな敗死
秋袷死なずに生きていずれ死ぬ
国益にならぬ蚕も透き通る
不戦宣言そののち緩む単帯
生きていること思い出す夏座敷
旧作に〈八月の赤子はいまも宙を蹴る〉
八月はまことに真夏永久に真夏
正月が来るとおもへば必ず来る
弟急逝
冬の街弟のほかみな長寿
ごまかせぬ蜻蛉の眼人間の眼
宇多喜代子(うだ・きよこ)1935年、山口県徳山市(現・周南市)生まれ。
★閑話休題・・髙柳蕗子「青柳定食」(「六花」VOL.3より)・・・
「六花」VOL.3(六花書林)、六花書林(宇田川寛之)は、創業14年目に入ったのだそうである。特集は「詩歌の魅力」、それぞれに興味深い論、エッセイが掲載されいるが、どうしても、愚生のいく人かの知り合いに目がいってしまう。中でも高柳蕗子「青柳定食」と題した論,『万葉集』以来の二十一勅撰集に約38200首ある歌のなかで「柳」に言及する歌が158首、しかもその3分の2の105首が「青柳」なのだそうである。また「柳」には「春」でそれが73首、同様に「柳+風」も44首があって、「風」と書かないまでも風になびく描写が重複して出てくるのだそうである。
だが、最も注目すべきは、「糸」だろう。「柳+糸」は九十二首で、そのほとんどに「乱れる」「撚る」「なびく」「結ぶ」「貫く」等々の縁語がいっしょに使われているし、「糸」と言わない歌でも糸の縁語が糸っぽさを演出している。そして、「糸」とその縁語たちは、しなやかに風にゆれる緑あざやかな春の柳という可視のものにっよって、「青春の純粋な恋心」という不可視のものを表現する。これこそが「青柳定食」特有の、繊細な流しそうめんのごとき食感である。
と述べ、「青柳の糸よりかくる春しもぞみだれて花のほころびにける 紀貫之『古今和歌集』905年頃」の名歌が「青柳定食」のイメージを定着させたという。その他、「露玉コラボ」と名づけている「露玉定食」もあるのだそうである。その融合で「青柳の糸に玉ぬく白露の知らず幾代の春か経ぬらむ 藤原有家『新古今和歌集』1216年頃」で、イメージコラボ「青柳露玉定食」にいたるのだ。それでも、現代短歌においては、いまや希少で、
もはや日本語の胃にほとんど溶けてしまったのだろうか。人の縁を糸の交差に例えて歌う中島みゆきの「糸」を聞くたび、そこに姿をみせない青柳を思う。
と結んでいる。そのはかにも興味をひかれたものも多かったが。もはや紙幅も尽きた。そうそう、つい先日、大橋弘「とっておきの詩歌書②」に「阿部青鞋選集『俳句の魅力』」が載っていたことをその選集を編んだ妹尾健太郎に知らせたら、岩尾美義句集『液體らんぷ』と一緒にあって光栄だ、とメールが入っていた。
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