河村正浩句集『花かしら風かしら』(四季書房)、冒頭に、松澤雅世の祝句、
滔滔と花に風にと交はりぬ 松澤雅世
が献じられている。また集名に因む句は、
松澤昭句碑墨直し
いしぶみなぞる花かしら風かしら
である。著者「あとがき」には、
さて、これまで『四季』の発表してきた句は、主宰誌『山彦』の句と共に句集に入れて来たが、私も四季会の一員であることから、私の心象造型は、如何なるものか、改めて見直してみたいと思うようになった。そこで『四季』創刊五十五周年を機に『四季』に発表した平成二十一年から三十年秋までの作品をまとめることにした。
とある。収めたのは202句、精選というべきか。そして「もっと無頼に徹し俳味ある俳句が詠めたらと思っている」と記している。心象造型俳句は松澤昭が推進した理念らしいが、年代的には石原八束の内観造型のほうが一般に流布されているように思えるが、それは愚生の憶測にすぎないのかも知れない。ともあれ、集中の幾つかの句を以下に挙げておこう。
赤い灯青い灯またたいて枯野 正浩
存念はひとつ大きな枇杷の種
虚実こもごも吐き出す桃の種
若竹のしなり鬱の字たてまつる
白桃の中は眠たく寧からむ
春や寒風に止まり木あるかしら
虹が見えるまで鏡を拭いてゐる
朧夜の行き着く先も荒れもやう
★閑話休題・・宇多喜代子「むらぎもの心の一部月色に」(「子規新報」第2巻70号より)・・
「子規新報」第2巻第70号(創風社出版)の坪内稔典の今月の2句「海月といそぎんちゃく」に、
(前略)ニ〇一九年版の角川書店「俳句年鑑」、小澤實、関悦史、村上鞆彦の三人が「今年の秀句を振り返る」という鼎談をしているが、その「今年」とはいつのことだろうと思ってしまう。
天風の宙を交差の秋燕
むらぎのもこころの一部月色に
月に置く斧や跨いではならぬ
右は三人がそれぞれに選んだ宇多喜代子の句だが、特にいいとは思わない。観念に傾斜していて言葉が生きて動く感じが弱い。関は「むらぎもの」の句について、「俳句の歴史を肉体化した〈心〉が月を受けとめている」と高く評価しているが、この句からそんな心がほんとうに読み取れるだろうか。おおげさな、こけおどしの物言いを関はしていないだろうか。
宇多の句は、大自然の中の小さな風景をとらえているが、私見では、宇多は大自然を優位に置き過ぎていると思う。右の三句の中では「月に置く」の句のイメージの端的さをもっとも感じる。跨いではいけないと思いながら、跨いでしまうような危機感というか、誘惑されるような感じがいい。もっとも、この感じ、やや既視感も伴う。それが私には不満だ。
と正直に述べているのはいいとしても、返す刀で、「新家の句集は荒っぽいが、その荒っぽさが片言の冴えをみせている」と言い、「瑠璃色のいそぎんちゃくに日は暮れぬ」の句に、「端的なイメージがくっきり、この作者、冴えている」と結んでいるのは、下五「日は暮れぬ」の安易とも思える措辞によって、その冴えも台無しになっているのではなかろうか。それは、どのように言ってみせたとしても、80歳を超えた俳人とその半ばまでしか人生経験のない俳人の使う言葉に、自ずとその厚みの差が出てしまうのではなかろうか、と思いたいところだ。
ともあれ、「子規新報」の特集「大野岬歩の俳句は、地味ながら,良い特集だったと思う。小西昭夫が最初に出会った俳人の顕彰に勤めているとおもうのだが、それは実にいいことだと思うのだ。
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