2019年2月11日月曜日

樋口由紀子「暗がりに連れていったら泣く日本」(「オルガン」16号より)・・



 「オルガン」16号、座談会は「樋口由紀子『めるくまーる』を読んでみた」。座談の主は田島健一、鴇田智哉、福田若之、宮本佳世乃。なかに「しばらくが山茶花の塀越えてくる」という句についての件では、

 宮本 こういう「山茶花」は季語に見える?
 鴇田 一句だけ見れば、見えるね。でも句集のなかで見るとそうでもないね。
 田島 「山茶花」はまだいいんだけど、〈昼寝する前はジプシーだったのに〉の「昼寝」とか。
 宮本 季語に見えないよね。
 鴇田 でも「ジプシー」の句は、俳句の句集にもし入っていたら、「昼寝」を季語として読まれるよね。
 宮本 その下地の差って何だろう?
 鴇田 俳句句集か、川柳句集かというパッケージの違いはある。
 福田 ただ『めるくまーる』には、かなり意識的に季題を詠み込んでいるふうにも読める句がありますよね。〈髪洗うときアメリカを忘れてる〉とか。これ「髪洗う」という季題を意識しているのでは。

 など、句を詳細に読んでいて、川柳と俳句の違いについて、当然ながら話が及んでいく。

鴇田 (前略)僕の場合は今、俳句と川柳は傾向の違いだと考えている。どちらも五七五の「句」であることは一緒だよね。その「句」のなかに傾向性の問題として俳句と川柳があるんじゃないかと。(後略)
田島 僕はちょっとそこの考え方が違っています。俳句と川柳がグラデーションで繋がっていると、以前は考えていたのですが、現在はむしろ両者の間にある断絶を考えないと間違えるような気がしています。
  
 と述べている。愚生もどちらかというと近くて遠い、同根の形式の持っているゆえに、それぞれの屹立性を持たないと、究極のところで、句がそれぞれ自立できないのではないかと思っている。
 他に青木亮人のエッセイ「あをぞら」。浅沼璞と柳本々々の往復書簡(5)は、今回で最終回。毎回、読ませてもらっていたが、刺激的で面白く、今号では、石田柊馬「妖精は酢豚に似ている絶対似ている」の句について、柳本々々が、

 現代川柳の代表句のような句だと思いますが、なぜこの句が現代川柳を《代表=代替》するのかは。(中略)
 この「似ている絶対似ている」は強度なんです。でも、無駄に《強すぎる》ことが大事だと思うんです。神はいる、神はいる、と強く主張するあまり、自分が神を信じていないことをさらけだすような言説になっているというか、ほんとうに《似ている》んだったら、ここまで言う必要はない。「妖精は酢豚に似ている」で、いい。でも「絶対似ている」をつけたことで《うさんくさく》なっている。この句の主体のようなものが仮にあるとしたら、いっぽうで主体は《絶対似ている》と信じている。でもその一方で「絶対」ということばと反復まで持ち出した語り手は、どこかでそれを信じていない。そこまで言説化する語り手の《かすかな信じ切れなさ》もこの句には露呈している。絶対といえばいうほどズレていく仕掛けがここにはある。そのねじれ、つかみにくい、ねじれが、現代川柳的だとおもうんです。(中略)右にあげた柊馬さんの妖精の句はこの〈アートロフの超躍〉に似たところがあります。(超躍は、わたしが今つくった超越+飛躍+跳躍の造語です)。
 いっかい、「妖精」と「酢豚」をメタファーでつなげる。そして修飾と反復で強度をくわえる。ところがその強度を裏切り、もっと別次元へ水平的に拡張していく。現代川柳にはそのようなところがあるのではないでしょうか。(中略)
このふおんさはなんだろうと。それは、ひとりの人間が複数の主体をもっていることの不穏さです。それは主体のイリーガル、違法な主体のはずです。でも現代川柳はやってしまう。

 という。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。

   鬼籍から枯木めがけて入る人    宮本佳世乃
   線路わきの機械に冬の月あかり    田島健一
   草の穂ははるかな舟を患へり     鴇田智哉
   身はみみずく海への風をさびしがる  福田若之



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