2019年2月18日月曜日

臼田亜浪「かつこうの何處までゆかば人に逢はむ」(『俳句の地底』より)・・



  加藤哲也『俳句の地底』(実業公論社)、初出一覧を読むと、基本的に俳句総合誌や結社誌に書かれた論を多く収録しているのだが、書下ろしが5編あり、それと講演録「臼田亜浪と加藤楸邨」がある。率直に言って書下ろしの論の方がいい。それはやむを得ないことで、求めに応じて執筆する場合は、それなりの配慮をしなければならず筆先はどうしてもにぶる傾向が出てくる。それでも、巻末の講演録で臼田亜浪が出てくると、なぜか嬉しくなる。いまや、臼田亜浪のことに触れる人はいないと思われるからだ。愚生が東京に出て来た頃、つまり二十歳の頃、さまざまな句会に直接お願いをして出席していたことがある。そのなかに一度きりだが、高円寺か阿佐ヶ谷あたりで、臼田亜浪「石楠」系の句会もあったように思う(忘却のかなたになっているが・・)。もちろん、愚生は若かったので、いまから俳句をやれば、ゆくゆく先生ですな・・などとからかわれたりしたが、どこの句会に行っても、皆さん大事にして下さったように思う。逆にこちらは、大結社の句会に出た帰りなどは、いつも不満が残っていた。吉祥寺・武蔵野公会堂で行われていた、萬緑の句会では参加者は100人くらい居られたのではなかろうか。中村草田男の尊顔も拝した(愚生が最初に読んだ入門書は角川文庫の中村草田男の『俳句入門』である)。
 本書の中では、「俳句と小説」の章で、愚生の俳句修行のきっかけのひとつでもあった「ある程ほどの菊投げ入れよ棺のなか」の夏目漱石や芥川龍之介に触れられており、さらにその「『俳句と小説』について【追補】」に以下の記述がされていた。。


 (前略)ここで、社会のことを、あまり言うつもりはないが、そういう社会の変革なくしては、日本の文学、俳句も含めて、の真の意味での現代化はできないということは間違いなさそうだ。俳句の座の問題とともに、いや、同じ意味といえるかもしれないが、これらが、現在の我々に突き付けられた課題と言えるのではなかろうか。

 あるいはまた、「俳壇の諸相」の「阿波野青畝あれこれ」には、青畝「虫の灯に読みたかぶりし耳しひ͡兒」(大正六年)の句について、窪田般彌の解釈を引用して、

 この句なども、ごく常識的に読めば、秋の虫の音も耳は入らずに読書に熱中している「耳しひ兒」の姿を思い浮かべるだろう。だが、私にはこの「耳しひ兒」は、虫の交響曲を聞きながら読書をしているように思えてならない。これは、私自身、日頃レコードをかけながら仕事をする習慣があるからだろうか。

 その見事さに驚かされる、と賛意を示しているが、そういう解釈は幻想的で面白いが、事実、阿波野青畝は、幼少より難聴だったので、「耳しひ兒」は自身のことだったと思う。内発する抒情が留められている。 愚生は一度だけ、阿波野青畝宅で宇多喜代子がインタビューする場に立ち会ったことがある(たしか森田峠も健在だった)。一通りの話が終わった後、愚生は無謀にも、阿波野靑畝に、「俳句にとって一番大切なものは何ですか?」と質問した。その答えは、「客観写生」や「花鳥諷詠」ではなかった。即座に「それは言葉です」と返ってきたのだ。もしかしたら、青畝の新しさとはそうした「言葉で書く」という認識だったのではないかとも思う。
 加藤哲也はまた「純粋俳句」についての論を試み、芭蕉の高みを目指すという理念を掲げているが、愚生はといえば、その才もなく、当初より「芭蕉とは歩く道を異にする」と誰かが言ったことを真似て、芭蕉の高みなど最初から放擲している始末なのである。
 ともあれ、臼田亜浪の句を、もう一句、本書より孫引きする。

   木曽路ゆく我れも旅人散る木の葉      亜浪

 そして、本書の書名の由来となった言説は、たぶん、以下によるだろう。

 俳句は、日本文学の黎明から、現在に至るまで、常に、少なくとも、その底流にはずっと流れていたのである。まさに、日本文学の「地底」にである。

という。

 加藤哲也(かとう・てつや) 1958年、愛知県岡崎市生まれ。


1 件のコメント:

  1. 加藤哲也(著者自身)です
    丁寧な解説を、ありがとうございます。
    率直なご意見にも、感謝いたします。
    今後ともどうかよろしくお願いします。

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