2019年2月9日土曜日
木村緑平「生きねばならぬ足袋つくろうておく」(佐瀬茶楽「木村緑平秀句鑑賞・その2」より)・・
昨年末に結成された自由律俳句協会(会長・佐瀬広隆)の機関誌「自由律俳句協会ニュースレター」に同封されていた「木村緑平の俳句鑑賞」というA42枚を折った8ページほどの冊子がある。実に貴重である。それは、佐瀬広隆が父・佐瀬茶楽のノートに書かれていた内容を紹介しているものである。その(1)の「はじめに」に、
父茶楽は木村緑平の句が好きでした。緑平の話も聞かされいましたが、俳句に興味がなかった時代の私には、その話は右から左でした。(中略) 昭和四十四年緑平と書かれたノートをみつけました。父がどれほど緑平の句に魅入られていたか、知ることになりました。ノートに書き記されているだけのもので、推敲や清書もなされてないものです。意味不明な文や表現は子である私が手直ししました。独断、偏向があると思いますが、緑平の理解に役立てばとの思いで掲載させて頂くことになりました。
平成三十年 晩秋 佐瀬広隆
とある。例えば、次のようなもの。
おしめ洗って干してたたんで春の一日
病気の妻のみとりであるが、ここにはもうじめじめした生活はない。しんみりした生活と、緑平ののホッとした嘆息と、妻への愛情がある。(その1、より)
また、(その2)には、
やっぱり生きとらねばならぬ髭剃る
ぎりぎりの極限生活である。そこに胸打つものがある。
*死を見詰めた緑平ではあるが、”髭剃る”に並々ならぬ思いが感じられる。(広隆)
あるいは、
これがお別れになる日記の重さ膝に置く
はらはらめくる日記のなかの山頭火の顔々
その手垢の跡も山頭火の顔になる
日記と別れてからの寒い日がつつづく
(前略)山頭火が二十冊の日記を託したのは、この世の誰にも言えないことを、緑平さんだけには知って貰いたかったからである。そしてまた山頭火が孤独に耐えることが出来たのは、心の中にいつも緑平がいたからだと私は思う。(後略)
と記されている。木村緑平は明治21年10月22日、福岡県生まれ、炭鉱医として半生を送る。荻原井泉水に師事し「層雲」に拠り、漂泊の俳人山頭火を物心両面から支えた。生涯、雀の句を作り続けたという。享年は79。また、佐瀬茶楽には、佐瀬広隆監修・佐瀬茶楽著『随翁井泉水秀句鑑賞』(2008年、喜怒哀楽書房)があるが、愚生は未見である。ともあれ、この「木村緑平秀句鑑賞」(その1、2)から句のみになるが、以下にいくつか挙げておこう。
三月二十五日
父より白くなった鬢つまみ父想う父の日 緑平
ひぐらしなかせているだけの生活である
年の夜おしめ火鉢にかけて寝る
病妻に白い雲みせておいて街に出かける
ねころべば昼寝になっている
誕生日好きな柿ひとつ柿の木から貰う
国久君来訪
生きとるから逢えもししぐれの音聴く
先に死なれぬ残っている歯をみがく
まだ死ぬことが残っている水を飲む
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