山地春眠子『「鷹」と名付けて』(邑書林)、著者「あとがき」に、
本稿は、「鷹」の創刊から五年間の年代記(クロニクル)で、「鷹」平成二十八年七月号から同三十一年四月号まで、三十四回にわたって連載したものである。その間に鶴岡行馬さんが秋櫻子の楠本憲吉宛書簡を発掘され、それを紹介させていただける幸運に恵まれた。
とある。本書でも第七章「湘子の馬酔木離脱」の章はもちろんだが、第一章「『鷹』の創刊前後」の章以後、「馬酔木」との確執については、縷縷記されている。それも山地春眠子の冷静な判断、注解などを含め、緻密に描き出されている(それすら、たぶん、表向きの理由に過ぎないのかもしれないが・・)。第8章「鷹独立宣言」もそうで、総ては、作と論の両輪を備えるためと、今後の俳句の新しみと表現のレベルを上げるための厳しい追求だったと思われる。発見された楠本憲吉宛の秋櫻子書簡については、全文引用されているが、その一部を以下に孫引きしておこう。
(前略)先日藤田が来て、今度九州兼任のやうなことになり、月の半分は九州へ行(ママ)ので、編集が出来ないと申しますので早速承知して置きました。試みに八月号の一部を小生がやつて見ましたが、別にむづかしくもなく、十分出来さうに思ひます。
藤田の言ふことは事実と思ひますが、編集をやめる気になつたのは、大兄の御訓しがあつた為め(ママ)と思ひます。馬酔木にとりましては好い結果になりましたので御厚意深く感佩仕ります。昔ならば到底これまで待てなかつたのですが、年をとりますと、事を荒立てるのがいやになりますので、実によかつたと思ひ、大兄の御厚意を繰り返し有難く思ふ次第であります。(後略)
この書簡を受けて、山地春眠子は、
➀ 湘子の仕事が九州関連であること。
② 湘子の辞任を秋櫻子は「早速承知」していること。慰留や後任推挙などのやり取りがあった形跡がないこと。
③ 湘子の辞任申し出については、憲吉の口添え(ないし根回し?)があったらしいこと。
④ 秋櫻子はどうやら、(本人としては我慢して)長い間、湘子の辞任の申し出を待っていたらしいこと。(「鷹」創刊前後、湘子らがいろいろ秋櫻子の「誤解」を解くべく奔走していたことが結局無駄に終わったように見える。)
と記している。そして、「鷹」「馬酔木」の編集後記と秋櫻子書簡から、湘子の「馬酔木」編集長辞任は四十一年七月初旬、と確定できる、とし、「花神コレクション『藤田湘子』及び『藤田湘子全句集』の湘子年譜にある昭和四十二年八月の「馬酔木」編集長辞任は誤りだったと訂正している。
湘子も常連だった新宿西口の「ぼるが」↑
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本書の帯の惹句の冒頭に、「創刊前後五年間の奇跡」とあるが、ここ数年のただ今現在、多くの俳誌が創刊されているが、かくも厳しく、俳句の論・作において、主宰を筆頭に、各同人が情熱的に切磋琢磨した俳誌はないのではなかろうか。俳句形式を追求するということは、それが、単純に楽しい・・などいう、生易しいものではなかったことが理解できる。時代の流れというには、余りに隔世の感である。
思えば、愚生が、最初に山地春眠子に会ったのは、故・大本義幸がバーテンダーをしていた東中野のバー「八甲田」の近くだったように思う。先日、刊行された『藤原月彦全句集』の年譜をみると、たぶん1975(昭和50)年頃だ。毎日新聞の石倉昌治(寒太)や上京した坪内稔典らと一緒だった。当時、山地春眠子はたしか「週刊新潮」の仕事をされていたように記憶している。ただ、もう44,5年は前のことで、記憶違いかもしれない。その後も彼の連句入門等の著書などによって、愚生は多くの恩恵を受けている。「鷹」創刊号(昭和39年6月30日)より、以下にいくつかの句を孫引きしておこう。
椎若葉病めば子の声透きとほり 相馬遷子
夜鷹鳴き硫黄にゆらぐ星ひとつ 堀口星眠
校庭の春真四角なる愁ひ 千代だ葛彦
息溜めて真昼麦秋の野の白さ 有働 亭
激雷の雨ともなはず別離以後 沢田緑生
晝灯す仕切場飛燕地を打ちて 古賀まり子
仙台蟲喰御打ち賜ふ蕎麦くろし 小林黒石礁
うなそこのごとき夕ぐれ四葩咲く 藤田湘子
春嵐未治退所者の荷を搏つも 植田竹亭
瑕瑾なき春の雲浮き遅刻せり 山口睦子
麦の禾眼をみひらくにわれ貧し 菅原達也
山地春眠子(やまぢ・しゅんみんし) 昭和10年 東京生まれ。
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