2019年12月18日水曜日
酒井弘司「十二月坂を登ってそうおもう」(『シリーズ自句自解Ⅱベスト100 酒井弘司』)・・
『シリーズ自句自解Ⅱベスト100 酒井弘司』(ふらんす堂)、その巻末の「私の作句法」の部分に、
そもそも俳句の言葉は、対象をなぞるために使われたり、伝達を旨に使われるものではなく、最短定型に収斂された言葉の衝撃や飛躍によって、そこにまだ見ぬ新しい世界、言語空間を現出するためのものであった。
一見、俳句という最短定型詩は、だれにも書けるように見えて、それは多くの俳句に惹かれた人を裏切っているのかも知れない。もっと言えば、俳句をつくる多くの人が、俳句形式によって裏切られているという事実。そのことを知らずに作句することは無残である。まず、俳句は言葉で「書く」という自覚を持つべきである。
季語にしてもそうなのだ。もともと季語は、長い年月を経て蓄積されてきた詩語であるが、その季語を約束として、あれこれ考えずに使っている。今一度、季語を言葉として捉えなおしてみては、どうだろう。それは詩語としての季語。季語を純粋に一個の言葉として考えなおそうとする。季語の象徴力の充実を指向するものである。そのことが詩語を自ら自覚して掴み取ると言う営為にもつながってゆく。その先に無季という視野も見えてこよう。
と述べられている。そして、金子兜太の句の数句を引用したのちに、
口語は、わたしたちの日常の言葉。これに、どう五七調定型を絡ませていくか。
必要に応じ口語も文語も自由に、句作をつづけてゆきたい。
と、結ばれている。恣意的だが、次の句の自解を三つ挙げてみよう。
樹に吊られ六月の死者となりうさぎ
六月は、わたしたちの世代にとっては、重く苦い月。
昭和三十五年、安保闘争のさなか、女子大生の樺美智子さんが亡くなったが、闘争に参加していた者にとっては忘れることのできない月。
その六月が巡ってくるたびに、歳月が消してゆく悲劇を忘れるわけにはいかない。六月十九日、日米安保条約が自然承認されたことも。
この句は暗喩。いつまでも鮮明にしておきたい一句である。
(句集『逃げるボールを追って』昭和四十年)
長女、志乃
朝のはじめ辛夷の空をみていたり
長女は、信州飯田市の鋤柄医院で誕生した。昭和四十六年四月七日。(中略)
名前の「志乃」は、「後漢書・耿弇伝」の「有ㇾ志者事竟に成」(こころざしあるものは、ことついになる)からの命名。 (句集『朱夏集』昭和四十六年)
かたむいて傾き歩く晩夏かな
俳人で詩人でもあった加藤郁乎さんには、若いころよく新宿近辺を連れまわされた。一軒飲んでも、そこで終りにならず、数軒のはしご。
ときには、目黒の前衛舞踏家・土方巽さんの家まで深夜おしかけたこともあった。居合わせた澁澤龍彦さんに会ったのもこのとき。
そんなとき、「きみら、傾かなきゃダメだよ」と、よく言われた。俳句を書くには、そんなに幸せでは書けないよ、ということでもあった。
(句集『青信濃』昭和六十一年)
本集より、句のみになるが、いくつか挙げておきたい。読みやすい一本であるが、志鮮やかな一書である。
寝ればなおちいさき母よイプセン忌
虫の土手乾電池片手に駆けおりる
麦の秋巨人は西へ去りゆけり
天の川四人が睡る家の上
人が人撃つこと止まずレノンの忌
尾をもたぬことなど忘れ花の下
この星のいのちはいくつ春立てり
つくつくぼうし山より水を流す父
黄落の地上どこまでも壊れ
野の花のようになれたらまた一歩
酒井弘司(さかい・こうじ) 昭和13年、長野県生まれ。
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