「俳句四季」4月号(東京四季出版)の中に、「いま推奨したい名句集」のコーナーがある。本号は、高橋修宏が「ー連作による擬史の試みー/攝津幸彦『鳥子』・大井恒行「本郷菊富士ホテル」・筑紫磐井『婆伽梵』」を執筆している。貴重なので紹介しておきたい。冒頭に、
ここで紹介する三冊の句集は、日々の嘱目や諷詠でも、ましてや作者の境涯でもない。俳句形式と言葉による想像力だけを手掛かりに、ある特定の歴史的な時空を擬き描こうとするものだ。すでに蕪村による王朝想望の先蹤があるものの、それ以上に戦前の新興俳句の中で提起された〈連作〉という課題に対する、戦後世代によるひとつの達成を示しているといっても過言ではない句集たちである。
とあり、トップに紹介されているのは、攝津幸彦『鳥子』で、そこには、
(前略)幾千代も散るは美し明日は三越
南国に死して御恩のみなみかぜ
当初、作品の半数ほどが「皇国前衛歌」のタイトルで発表されたように「皇国」、「歩兵」、「すめらぎ」、「民草」、「満蒙」「御恩」など大東亜戦争にまつわ言葉が多く用いられている。(中略)
しかし、それらの言葉をあえて〈連作〉を構成する際に、いわば〈俳言〉として方法的に用いることによって、現実を体験した者には描かれることのなかった、言葉による戦前の光景を手に入れている。おそらく、体験にまつわる感情から自由であるがゆえに、ひときわノスタルジックに描くことも、その時代を象徴する言葉の核心が何であるかを発見し、演出するとさえ可能であったのではなかろうか。これらの作品に通底するアイロニーに満ちたリアリティは、戦後世代によって達成された連作の示標のひとつといえよう。(中略)
たびたびは狂えぬ花の咲きほこる (大井恒行)
わが祖国愚直に桜散りゆくよ
月光のあふれる駅をまたぎけり
夢とまぼろし合わせてもなお足らぬ愛 (中略)
また、一句目の刹那、六句目のアイロニカルな情感、九句目の美的陶酔、十句目の絶唱など、このじだしへの作通主体の想いが、はからずも作者の肉声のような呟きさえも呼び出している。すでに失われた「菊富士ホテル」という舞台を通じて、ドキュメンタリ—とは一味異なる、作者の良き時代への切ない郷愁とアナーキーなロマン性に色取られた、どこか映画的な連作ではないのか。
そして、三冊目は筑紫磐井の『婆伽梵』、ここではそれぞれから一句のみ抄出する。
「みづかがみ」より
化粧(けはい)して蛇に魅入られ水鏡
「鎌倉草紙」より
緋縅の蝶吹上げよ那智の滝
「青樓」より
君不来(こず)がまたひぐらしと書き候
「鹿鳴」より
麗人をいざなふ僕の白手袋
「帝国海軍」より
八月の日干しの兵のよくならぶ (中略)
古代から近代へと構成されているものの、けっして大文字の政治社会史という野暮な史実の連なりではない。
たとえば、「みづかがみ」のエロティックな異類婚、「維摩経」の秘教的な気配、「問答書」の切支丹の土俗性、「青樓」の遊女の恋、「雨月」の怪異譚、「鹿鳴」のスノッブな風俗など、ときに時代の表層に見えながらも、われわれ日本人の奥処に眠り続けてきた聖性や驚異、恐怖や恋情、さらには憧憬や幻滅さえ投げかけてくる、まさに精緻な歴史風俗絵巻と言えるのではないか。(中略)同時に「ばかぼん」という音の連なりによって、あの懐かしいギャグ漫画の主人公を想起させるユーモラスな仕掛けも感じさせるのだ。
攝津幸彦のアイロニーとも、大井恒行のアナーキーなロマン性とも肌触りの異なる筑紫磐井『婆伽梵』は、俳句ゆえに可能となった過激な詩的アナクロニズムによる麗しい達成と呼べるのではないだろうか。
と記している。本誌本号には、他にメインの特集「前衛俳句とは何か―21世紀の『前衛』を考える」ーがあり、堀本吟「前衛俳句ー今もさまよう」、秋尾敏「メタ・ポップ。進歩主義を超えて」、今泉康弘「相対性前衛論」、岡田一実「『前衛俳句』のいま」、川名大「前衛俳句の未来ーその可能性としての属性」、田中亜美「1922・1962・2022-時代の潮流を繋ぐ」、千倉由穂「無季でしか詠めなかった俳句」、西川火尖「臍の緒、凧の糸」、日野百草「新文芸の可能性」、堀田季何「前衛と新しさと」、森凛柚「二十一世紀の新しさについて」の論考があり、それぞれに読ませるが、堀田季何の論の結びを以下に記しておこう。
キーワード、切れ、短さを持つ自在季自在律句は、(地発句と近代俳句が違うように)パラダイムとして近代以降の俳句とは別物である以上、前衛でなくても、新しいのは間違いない。現在、世界各地で進行、拡散中である。
以下は攝津幸彦の句、
前衛に甘草の目のひとならび 攝津幸彦
撮影・中西ひろ美「友Aの記憶忌日となり暮春」↑
0 件のコメント:
コメントを投稿