2022年5月18日水曜日

鈴木しづ子「葉の蔭にはづす耳環(みみわ)や汗ばみて」(「なごや出版情報」第5号より)・・

 

 「なごや出版情報」第5号は、愛知・岐阜・三重、東海の出版社13社が共同で出しているフリーペーパー、各出版社の宣伝情報誌である。黎明書房の武馬久仁裕が送ってくれた。そのなかで、武馬久仁裕は「鈴木しづ子拾遺」を連載している。本号は、その2回目で、「葉の蔭(かげ)にはづす耳環(みみわ)や汗ばみて」(句集『指環』昭和27年)、所収の句と、「万緑や腰おろすべき石さがす」(「樹海」昭和38年6月号)の句を、紹介、鑑賞している。

 それは別にして、愚生が興味を惹かれたのは、もう一人、俳句に関するエッセイ「一家に遊女も寝たり萩と月 芭蕉 /本当に、市振に遊女はいたのか」を書かれている俳人がいることだ。まつお出版社の、名は松尾一(俳号・一歩)とあり、かつ、「獅子門小竹社第一世詞宗 齊々庵一歩」とある。その中に、


  (前略)それでは、実際に芭蕉と曾良が泊った市振の桔梗屋に遊女あるいは飯盛女がいたのだろうか。

 享和二年(一八〇二)、加賀藩士が江戸からの帰途、親不知を避け、親不知の山側を越えて市振に着いたが、ここで難所通過祝いという名目で遊女が売っていた餅を買っていた。まあ、一種の勧誘行為であるが、これによって市振に実際に遊女がいたことがわかる。(中略)

 『おくのほそ道』を連句に例えれば、那須の「かさねとは八重撫子の名成るべし 曾良」を歌仙の初折の裏の恋句、市振のこの句は名残りの表の恋句といわれている。

 江戸時代、遊女とか飯盛女はほとんどの宿場にいたといっても過言ではないが、芭蕉は、『おくのほそ道』において、あえて市振という場面で遊女を登場させたのは、この作品を、やはり連句に見立てた構図にしたのではないかとおもうのである。


 と結んであった。話を、武馬久仁裕にもどすと、同封されていた案内ハガキにには、「遊五人展」朗読会ー詩と俳句というのを5月14日(土)~5月19日(木)まで、松山市のギャラリーキャメルK(松山市錦町33-3)でやっているという。お近くの方は、立ち寄ってひやかしてやって下さい。ちなみに案内ハガキの絵は、小西昭夫「いのち NO2」(上掲写真)とあった。



★閑話休題・・第37回詩歌文学館賞贈賞式・・5月28日(土)午後3時ー入場無料ー・・


・第37回詩歌文学館賞贈賞式、来る5月28日(土)午後3時・入場無料。

・記念講演は松平盟子「『みだれ髪』と『白桜集』を繋ぐものー晶子没後80年」。

・会場 日本現代詩歌文学館 JR北上駅からタクシー約6分。電話0197-65-1728。

 ちなみに、今回の受賞者は、詩部門は田中庸介『ぴんくの砂袋』(思潮社)、短歌部門は志垣澄幸『鳥語降る』(本阿弥書店)、俳句部門は遠山陽子『遠山陽子俳句集成』(素粒社)である。慶祝。



     撮影・芽夢野うのき「頭のなかがいつも散らかって昼顔」↑

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