寺田澄史(てらだ・きよし、愚生らは「ちょうし」と言っていた)の句は、一行書きももちろん多いが、二行書きにその特徴があろう。
この『新・浦嶼子伝』は第13回現代俳句協会賞候補になった作品群らしい。岩片仁次がそのあたりについて「夢幻航海」第69号(平成21年9月刊)の編集後記に「寺田澄史『伏翼搭奇譚抄』が完結した。計画としては、これに『騎』に発表した句篇を以て二冊の句集となる予定であるが、さて、それがいつ実現するかと言うと、きわめて定かならずで、いわば、『地下のハコモノ』の実現に似ているかもしれない」といい、同誌前第68号の編集後記では「もし、その実現あらば、俳壇には全く無縁なれど、知る人ぞ知る、寺田澄史の蘇生として祝福するもあらん」と記している。
『新・浦嶼子伝』(トムズボックス・2002年400部限定、1500円+税)の絵・宇野亜喜良によると、当初は美術出版社から1964年に刊行された「日本民話グラフィックス」のなかから〈浦島太郎〉の部分だけを収録したという。宇野亜喜良30歳の頃の作品らしい。各ページに描かれた宇野亜喜良の絵は掲載できないので残念だが、寺田澄史の句を以下に、
朝な朝なの 水甕に
せめての父似が 酌まれけり 澄史
水母流しの くらがりや
ただ一秉(たば)の 髪を妊り
父に似て 父にはあらず
舟を舁いで 一足おそく
「夢幻航海」第68号(平成21年5月)に発表された「定稿・伏翼搭奇譚抄」の句から、
あるじは 野(の)に
牡牛(おうし)は屋根(やね)に 焦(こ)げにけり
照(て)り照(て)り坊主(ぼうず)も
粥(かゆ)の木(き)も 春(はる)まだき
この折の注釈に、寺田澄史は次のように記している。
本稿は駒込に在住した津久井理一さんが、「八幡船」を創刊された折(昭38年)に、所望されて
創刊号から三号まで、八句宛寄せたのが始まりだった。我等にテーマ主義を説きつつ、高柳さ
んが「蒙塵」に傾注していた頃で、当方は未だ駆け出しにも至らずも、その強い影響を浴びてい
たことは云うまでもない。二行表記は、単に三行術、四行術に凭りかからざるも亦仁義ならんと
思ったまでの戯れ事で、偶々、夢幻航海社が載せて下さる由なれば、殆どを新規稿にて入替
え、おじゃまの次第也。
これまで、寺田澄史には、句集『副葬船』『がれうた航海記』『新・浦嶼子伝』などがあるが、愚生は『副葬船』は未見、『がれうた航海記』もコピーを持っているだけで、他は『昭和俳句選集』(永田書房)に収録されている寺田作品を楽しみに読むのみである。
くわらくわらと 藁人形は 煮られけり 澄史 (昭和34年)
この年、赤尾兜子「毒人参ちぎれて無人寺院映し」、折笠美秋「散るという言葉の奥へさくら散る」、加藤郁乎「雨季来りなむ斧一振りの再会」、三橋鷹女「雪をよぶ 片身の白き生き鰈」、三橋敏雄「海山に線香そびえ夏の終り」、高柳重信「たてがみを刈り/たてがみを刈る//愛撫の晩年」大岡頌司「ちやんちやこの/魯西亜さむがる/ひもむすび」などの句が発表されている。
日に三たび汝は自転車に縛らるれ 澄史 (昭和48年)
愚生が寺田澄史に会った最後は、高柳重信13回忌の折の富士霊園だったから、もうずいぶん長い年月をお会いしていないことになる。後年「豈」の表紙絵を描いてもらっていた故・風倉匠と友人だったとも聞いた。愚生が「俳句評論」の代々木上原句会に出席していた20代の初め、高柳重信が愚生に、「もし、今、マネをするんだっら寺田澄史や折笠美秋だな」という呟きと合わせて「若い人には僕の第三句集まで・・」と言ったのを覚えている。結局、愚生はこれまでどちらともつかず中途半端に終わってしまっているのだが。
エゴノキ↑
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