位図法のなかでわたしは感覚する。
「唄」第二号(1974年3月・紫陽花社刊)に初出の荒川洋治の「楽章」は上記のような表記だった。
「楽章」はのちに詩集『水駅』(1975年、書紀書林刊)に収載され、『水駅』はH氏賞を受賞した。
愚生が吉祥寺駅ビルあった弘栄堂書店に勤務していた頃、受け持った担当に詩歌の棚も含まれていたので、取次会社経由以外の版元との直接取引によって、いくつかの小出版社のものも扱っていたのである。
「唄」を置いて欲しいと訪ねてきたのが荒川洋治、平出隆などだった。駅ビルの奥にはねじめ民芸店もあって、ねじめ正一も店番をしていた時代のことだ。
「唄」は編集を清水哲男・正津勉、発行人が荒川洋治。隔月刊の予定のようだったが、どこまで続いたかは失念した(第二号はたまたま筐底に眠っていた)。
「世代の興奮は去った」・・・なんと格好良いフレーズだと、ちょっと興奮したのを覚えている。確か「ぼくらが戦後詩から学んだものは技術のみだ・・」というようなことを言ったのも彼だったように記憶しているが・・果たしてどうだったか。記憶はおぼろだ。
その「唄」二号には、清水昶「野の舟」、相生葉留美「外出」、佃学「肖像画のために」、清水哲男「スピーチ・バルーン(連作)」、正津勉「帰去来散稿」、黒田喜夫・寺山修司対談「彼岸の唄」が掲載されている。そういえば、書紀書林の「書紀」という雑誌を平出隆、稲川方人等が季刊でやっていた(今は手元にない)。
わが書店の詩歌の棚の「現代詩文庫」(思潮社)の売上が全国書店のなかでベスト3に入っていた、現代詩が輝いていたころのことだ。
カルミア↑
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