2014年5月25日日曜日
澤好摩「燃え崩る榾あり人に喪志あり」・・・
今日は、第64回文化庁芸術選奨文部科学大臣賞受賞記念「澤好摩の受賞を祝う会」である。
受賞作は句集『光源』(書肆麒麟)・2013年)、澤好摩の第4句集である。
同賞は70歳未満の授賞規定があるそうだから、ぎりぎりの69歳の授賞であった。2日前の22日が誕生日で70歳になったばかり。坪内稔典は先に盛大なる古稀のお祝い会を行ったそうだが、澤好摩にとっては、受賞を祝う会がすなわち古稀のお祝い会になるはずである。
澤好摩はかつて坪内稔典と同志的連帯で結ばれていた。彼らの出していた同人誌「日時計」の「日時計叢書第一集」こそは、澤好摩第一句集『最後の走者』(日時計書房・1969年刊)である(摂津幸彦の『姉にアネモネ』50句も同叢書である)。限定300部300句、序文は、大学の先生・石田穣二、解説は坪内稔典「沢好摩ノート」。第一句集の題ともなった「木枯しの橋を最後の走者過ぐ」の句について、坪内稔典は次のように記している。
〈最後の走者〉という言葉は様々な連想を呼ぶ。俳句に限っても、石田波郷の弔鐘の弁を思い出させる。この種の言葉は、〈書く〉ことの個人的な意味を、衆の中へ、もっといえば体制的ムード、観念論の中へ拡散させてしまう。
〈書く〉ことの意味は、言葉のこの種の連想性とは全く無縁である。それにもかかわらず沢がこの句をもって句集の題名とし、一連の作品を収めたことは、単なる過去の記念というより僕はそれを、今日の沢が自ら対峙するものとしてこれらを集中に措定したのだと考えたい。沢の今日的な志向は、〈意味するもの〉としての言葉から、〈意味されるもの〉としての言葉へむいているし、とりわけ、僕らの詩がストレートに〈郷愁〉や〈寂寥〉や〈永遠〉へ到る時代はとっくに過ぎ去ったことを自認してもいるのだ。
そして、あらためて思う。はたしてその時代はとっくに過ぎ去ってしまっていたのか、と。〈郷愁〉や〈寂寥〉や〈永遠〉の渦中にいまなおもがき続けているのではないかと。あえていえば日本的抒情のその先はいまだに若き日の愚生らの先に壁として立ちはだかり続けているのではないかと。ならば、志はまだ捨て去るには早く、その希望を捨てたくはないと・・・「喪志」とはもともとすでに喪われてしまった志のことにほかならない。いつまでもその喪志を、口惜しみとともに掘り起こしてやまないからこそ、たぶん澤好摩も俳句を書き続けているにちがいない。
思えば「最後の走者」を見送ってから45年が経ったのだ。手元に残された、その見返しには「睡い馬繋ぎ 河畔で膨れる樹 好摩」と若き日の署名がある。
愚生が山口を出奔し、京都から流れて、東京に着いた21歳のころ、「万緑」、「風」などのいくつかの句会を訪ね、いささか倦んでいた折り、「俳句研究」社に電話をして句会の紹介をお願いした。そのとき電話口で、十二、三人の句会があるが、来てもいいよ、と言われ、訪ねたのが代々木上原の「俳句評論」の句会だった。その最初の日に声をかけてもらい近くの「俳句評論」発行所についていった。それが、澤好摩との最初の出会いであり、同世代横山康夫ともその時が初対面だった。以後、ついに「俳句評論」に加わることはなかったものの、高柳重信はじめ、三橋敏雄、三橋孝子、三谷昭、折笠美秋、寺田澄史、中村苑子など、あげればきりがない多くの俳人の知遇を得たことは、今日までの恩義である。
その俳恩浅くない澤好摩のお祝いの会となれば、なにはおいても馳せ参じなければならないのだが、あろうことか、愚生は急きょ三日前に、鼻のポリープを手術することになって、簡単な手術だったとはいえ、欠席の止む無きにいたった。ならば、せめてこのブログで『光源』を取り上げようと思った次第なのである。
ものかげの永き授乳や日本海 好摩『印象』
ピストルを極彩色の天へ撃つ
祈りとは海を曇らす吐息だらう
苦艾(にがよもぎ)瀧は後退しつつあり 『風影』
日と月と蝶さへ沈み真葛原 『光源』
長岡裕一郎急逝
影まで酔ひ月夜の駅の階に消ゆ
敏雄忌のけふの畳を掃きにけり
藁塚の芯乾かざる六林男の忌
梅と桜の端境にあり美秋の忌
野ざらしはまた夢ざらし無蓋貨車
凭るるは柱がよけれ妹よ
テイカカズラ↑
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