2018年1月19日金曜日

加藤知子「忽ちにその渾沌のしぐれけり」(『櫨の実の混沌より始む』)・・



 加藤知子句集『櫨の実の混沌より始む』(ジャプラン)、集名は以下の句に因む。

 還暦や櫨の実の混沌より始む      知子

跋文は、竹本仰。渾身の評文である。「原子炉のくがたちめけば花の冷え」の句について、

 くがたち。「探傷」と書き、古代には正邪の判定をするため、神に誓って熱湯の中に手を入れさせたという。正しいものは火傷しないが、不正なものはただれるとされた。その現代の「くがたち」が原子炉であるとは、原発賛成派から見れば反対派はみなただれるのであり、反対派から見れば賛成派はみなただれるのである。

 と述べられている。正直に言うと、不明にして愚生は「くがたち」の「くが」を「陸」と読んでしまったので、「花の冷え」のあしらいも悪くない、と思った(広辞苑6版には「くがたち」がなく、「くかたち」の表記しかない)。竹本仰の読みには見事で教えられたが、それでは理が通りすぎる、句があまりに理屈めいて読めてしまうきらいが生じるようにも思えた。しかも「花冷え」の情緒に収斂されては身も蓋もなくなるのでは?とも思った。作者の側からすれば、句を正確に読ませたいのであれば、仮名で「くがたち」とひらかずにきちんと漢字で「探傷」とし、ルビをほどこすという手もあったのではないだろうかと思った次第である。蛇足を述べているようだが、作者は、最近「豈」に参加された愛すべき我が同人仲間であるから、あえて老婆心ながら、というわけである。
 ついでと言っては失礼だが、集中の句の表記が現代仮名遣いと歴史的仮名遣いが混在しているのは、句集としての統一感に若干欠けるようにも思う。一句一律という考え方もあるが、一冊の句集となれば、句集における統一感も無視はできない。現代の猥雑さを書くには林田紀音夫に倣って現代仮名遣いで書くという選択、渾沌を選びたいところである、と愚生は思う。
 また、「あとがき」の中に、

 どんな俳句を書きたいか。端的にいえば江戸時代の曾我蕭白(1730~1781)の「画」のような俳句を書きたい。今はー。(中略)
 繰り返しになるが、シュールな句は、読み手を現実と非現実との狭間に誘い込み、作者本体と作品との間に横たわる物語を想像させるものである。そこにおける言葉の交感こそが、読み手に未知の喜びを与えるものであろう。それは時として、人間存在を含めた自然現象の内奥に秘められた狂気であったり魔性であったり、或いは何か得体の知れないものかもしれないが。
 今の私の日常を詠むということは、このようなシュールなものに近づくということである。常識や権威に捉われず、世間にも迎合せず、奇才蕭白のような巧みな技はなくとも、シュールな実験句をも楽しんでみたい。あーでもない、こーでもないと伸吟しつつ。

とも記されている。健吟を祈りたい。ともあれ、いくつかの愚生好みの句を挙げておきたい。

  戦いに往かないさくら往くさくら    知子
  桃の実の丸ごと「初年兵哀歌」
  地響きのぐわぁしゃぐわぁしゃなんじゃもんじゃの葉
  春深く崩れし空を塗り替える
  瞑想の前か後ろか雉の声
  かなしみて冬木の水の盛り上がり
  野の遊び鳥毛屏風の中にゐる
  ニッポンの煮凝り止まぬ空を見る
   

加藤知子(かとう・ともこ)、1955年、熊本県菊池市生まれ。
表紙絵も著者。装幀は高岡修。


           撮影・葛城綾呂↑      

 


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