2020年8月27日木曜日

詠人知らず「姫螢ためらいもなく闇に添ふ」・・・



                 詠人知らず10句↑

 長年句を書いているせいか、愚生にもごくたまに、見知らぬ人から、句を送られてくることがある。批評せよ、とか、添削して下さいとかも何もないので、だいたいはそのままに打ち捨てておくのだが、素人、しかも俳句的な修行などしたこともない様子で、それでも、なかなかな心が宿っている様子の句であったので、本ブログの気ままな肴にしようとアップさせていただくことにした。確かに、これらの句に、いさささかの句歴があれば、テニオハに工夫を加えて、句姿も内容ももっと飛躍的に良くなると思える句があった。よって原句のままで、いくつかを以下に紹介しておたい。詠人知らずだから、著作権ご免である。

  白象の背に揺られゆく花曇り     詠人知らず
  五月雨や白々灯る浮身宿
  白牡丹奈落をすぎてこの一輪
  海鼠皿あえかに青き息を引く
  葉桜や荒ぶるものが翳に立つ






★閑話休題・・宗近真一郎『詩は戦っている。誰もそれを知らない』(書肆山田)・・


 帯の惹句には、

 けっこうな難路であるようだ。雨空の電線に深紅のリボンが結ばれている―「詩」が書かれる。現れ出るものがあり、読む者に届こうとする。読者は何を受け取るのか。詩と思考が手さぐり行く隘路に伴走し、その支えの無い宙空をかきわける現場記録。

背には、

 詩の「いま・ここ」を問う/問い尽くす

 とある。まだ、最初の「その結び目は予め解(ほど)かれて在るーまえがきにかえて」の次の部分に、先日の本ブログで、「俳句界」9月号の田島健一「難解句について」を少し引用したが、そのことに、繋げて読んでみたのだった。

 (前略)叙事には、言葉にできない激情(自己-への怒り、に投影される)のためにアウトフォーカスになった光彩を、もういちど言葉に回帰させるというエクリじたい、出来事‐化を引き受ける想像力(イマジネール)において、主体は複数化し、現実と非現実、存在と不在のあいだで宙吊りになり、削除される寸前のところで揺らいでいる。つまり、叙事は抒情の懸崖からはじまる。(中略)
 ひとつは,詩作品が「出来事」に成り上がるには、詩作それじたいが詩作以外の全てに代償されるくらいの「手続き」と「デリバリー」を通過するという隘路へと奪回されねばならず、ふたつには、詩的行為はその固有性を擬態した「内容」においてではなく、その騙りがそうであらねばならない「形式」へと追い込まれ、作品というものの無‐根拠性がむき出されるべきである、ということだ。

 と、記されているが、魅力的な書名「詩は戦っている。誰もそれを知らない」にかこつけて「俳句は戦っている。誰もそれを知らない」と言いたいのだが、どうやら愚生の力は及ばない。先の田島健一青年あたりに頑張ってもらうしかないようだ。
 ともあれ、本書は詩の時評に多くが割かれているのだが、読み通すには、果てしなく、先が長そうだ。興味のある方は、その活きの良さを手に取っていただきたい。

 宗近真一郎(むねちか・しんいちろう) 1955年、大阪生まれ。  


  撮影・鈴木純一「捨姥待月(としおいしははをすてんとつきをまつ)」↑

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