現在、安井浩司の評論を読もうとすれば、それなりの困難が伴う。平成13年頃、一度、散文の断筆断筆宣言をしたという安井浩司は、その後、その表現行為のエネルギーをほぼ膨大な俳句を作り続けることに費やしてきた。
さらに既刊の評論集『もどき招魂』(端渓社)は絶版であった。それに『聲前一句』(端渓社・新装は沖積舎)、『海辺のアポリア』(邑書林)、新しく四番目の文集「拾遺編」が加わって一本の大冊・『安井浩司俳句評林全集』(沖積舎)が成った。
酒巻英一郎企画編集校正による仕事であると扉裏に記されている。現「LOTUS」発行人・酒巻英一郎は先に彼の師であった『大岡頌司全句集』(浦島工作舎)に関わり、金子弘保ののち、この間の安井浩司の句集のことごとく、また『安井浩司選句集』(邑書林)の刊行に尽力してきた。それにも敬意を表したい。酒巻英一郎には幾たびか、自身の三行、多行の句集の刊行を勧めたことがあるが、彼は、自らの著は、願わくば遺句集即全句集一冊で良いと取り合わない。
ともあれ、『安井浩司俳句評林全集』、とりわけ「拾遺編」には近年の安井浩司の志向がうかがえ、俳句の風景においても、もはや遠く忘れ去られてしまったかのような俳句形式に対する精神をそこに想うことができる。
「拾遺編」の「虚空山河抄ーあえかなる私記」の最後部分を以下に引いておきたい。
最期に申そう。いわゆる日本的知性の父母たる東洋における古代実存、古代存在論にはそれ自身大いなる虚(空)を知らねばならないのだ。虚なるものを限りなくふくらませ、はぐくんで来たもの、それがことばの智恵というものではなかったか。よきにつけ、あしきにつけ、そこを担うのが詩の宿命でもあるだろう。
句をなす友よ、いずれにせよその荒野の軌なき道を歩む外は無いのである。
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