2016年1月22日金曜日

安井浩司「草露や双手に掬えば瑠璃王女」(「俳句界」2月号)・・・



「俳句界」2月号(書店発売は1月25日)は各特集の記事、作品の執筆陣を含めてなかなかの充実ぶりである。
とりわけ、「鬼才の俳人 安井浩司ー心の槍を研いで俳句を作る」の特集は俳句総合誌としては初の快挙であろう。
内容も安井浩司自選50句、安井浩司の書(軸もの4ページの写真)、編集長・林誠司のインタビュー「”無限”という道を歩く」、また論考の救仁郷由美子「俳句の無限連続」、関悦史「驚異という俳句の屋台骨」など、よく安井耕司の在り様にせまっている。
インタビューではこれまで安井浩司が語ったことのないことがかなりある。ほぼ毎日20句を大学ノートに書付け、それを2年間続けて1万2000句の荒行、それを第7次まで推敲を重ねて、推敲しながらカットして約1000句になる、その時点で初めて新作の俳句が生まれる。これで2~3年かかるという。従って、今回の「俳句界」編集部からの新作要請は実現せず、自選50句のみになったらしい。加えて夢中作も加わる、という按配だ。インタビューの最後に近いところでは以下のように述べている。

  私は句集を何冊か出してるけど、常に乞食みたいな旅をしているんですよ。先もよく見えませんしね。一種の結論の場に座れるような書き方ではない。それで俺は”無限”なんだと。西脇さんが永遠であれば安井浩司は無限だ。晩年は無限をテーマにしよう、と思っているんです。無限は自分を旅人にすることも出来ます。無限は結論ではなく、どこまでも自分がこの足で歩いていく。これが自分のスタイルであり、様式なんだと。何を書くかというテーマでなくモチーフとしてね。テーマは常に探求ですから、無限をモチーフにして。これは一つの道だね。道には旅人が存在出来ると思ってるんですよ。ニコラウス・クザーヌスというドイツの哲学者が「無限」について、
無限なるものに於いて、あらゆるものは拡散するのではなく、集約して一致するということを書いているんです。こんな一致までは私も行けませんけど、どこかで無限そのものも一つの立ち姿みたいなものを結ぶことが出来ますよというようなことで。それを励みにやっていくのが、このあとの仕事ですね。

本論考のなかで、関悦史は、安井俳句の方法について、次のように指摘している。

 ふつう俳句の作り方としては、詠みたいもののイメージがかなりの程度作者にあらかじめ明確であり、言葉をそのイメージに合致するよう組織していくというのが多数派であろうが、安井はおそらく、一句が出来上がるまで、自分が何を書こうとしているか、漠然とした方向と、モチーフのわずかな手がかり以外のものを持っていない。安井の句が超現実的に見えるにしても、イラスト(説明図解)的な明快さから遠く、豊饒な混濁を示しつづけることが出来ているのは、そのためである。

安井浩司(やすい・こうじ)、1936年2月29日、秋田県能代市生まれ。
ともあれ、以下にいくつかの句を自選50句のなかから挙げておこう。

  渚で鳴る巻貝有機質は死して      浩司
  キセル火の中止(エポケ)を図れる旅人よ
  ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき
  麦秋の厠ひらけばみなおみな
  汝も我みえず大鋸(おが)を押し合うや
  有耶無耶の関ふりむけば汝と我
  冬青空泛かぶ総序の鷹ひとつ
  万物は去りゆけどまた青物屋
  天類や海に帰れば月日貝
  花鶏(あとり)ども流れる宇宙も化粧して



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