2016年1月27日水曜日

前田英樹×小栗康平「見るということは、接触していないということです」(「図書新聞」3240号)・・・




愚生は、このたびの小栗康平の映画FOUJITA」を観ているわけではない。
ただ、前田英樹にはいつも注目をしている。それも個人的な理由によるものである。
彼がまだ学生時代、と言っても大学院生であった頃,だと思う。愚生の入会した新陰流兵法「転会(まろばしかい)」の実質師範代であり、当時、尾張柳生流の流れにあった「転会」の刀法を「新陰流は上泉伊勢守に帰れ!」と言っていた前途有望の若くて、強い武道家だった。まもなく彼が丸山圭三郎の弟子でソシュールの研究家で言語学者であることを知った(『沈黙するソシュール』書肆山田刊で華々しくデビューした)。
映画に関しても小津安二郎論の著作もあり、また、府中市美術館で開催中の「若林奮ー飛葉と振動」の彫刻家・若林奮との共著・対談集もある。その他、小林秀雄や保田与重郎などに関する著作はもちろんのこと、批評家としての活躍はご存知の通りである。
この度の小栗康平との対談「絶対級を目指す」は映画監督・小栗康平のDVD作品集全4巻の発売を記念したもので、その解説を前田英樹が執筆、東京堂書店で行われたトークショーの採録とのことである。
愚生は俳人の端くれだからどうしても俳句形式に、身勝手に引き寄せて考えてしまうのだが、次の件あたりは、頷くほかなかった(アトランダムに引用する)。

  
小栗 見るということは、接触していないということです。ロングでもアップでも必ず距離がある。距離があることで表現になる。

小栗 つまり、見えているあらゆる形や事物がフレームのなかで捉えられることによって、普段我々が気付くことのない祈りや信仰、そして共にあるものたちという感覚への新しい心の動きに触れられればいい。

 小栗 芝居の上手下手は単なる比較級の問題でどうでもいいことです。絶対級ではない。監督も俳優も絶対級を目指すんだということですね。

 小栗 藤田が帰国した戦時下の日本でも、やはり自分が捉えようとしている主たる感情は明治以降の日本人の悲しみでした。それは、近代のなれの果てを生きざるをえない我々一人一人の悲しみでもあります。

前田 機械産業の一方の先端は近代兵器で、これは徹底した破壊を、世界の否定を目的にしています。写真、映画による機械映像はもう一方の先端で、こちらは徹底した世界の肯定です。





                                          
大國魂神社の欅↑


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