掲出の句は、「波」(新潮社)に連載されていた「父と母の娘」末盛千枝子の最終回「逝きし君ら」の最後に引用されていた句で、
逝きし君らのこれる我等樹々は若葉 木耳郎
切り抜きの余白に(昭和)四十五・五・十二朝日(夕)と記してある。私は二十九歳だった。
(了)
と結ばれている。愚生は末盛千枝子のことをほとんど知らなかったので、ネットで検索したら、プロフィールに、「1941年生まれ。絵本の編集者を経て、88年すえもりブックスを設立。 『長崎26聖人殉教者の像』や、なじみ深い『田沢湖たつこ姫の像』などで知られる岩手出身の彫刻家・舟越保武氏の長女として生まれ、自らも児童図書や出版業界で活躍してきた末盛さんが、このたび八幡平市へ移住。末盛さんは、保武氏29歳の時に8人兄弟の長女として東京に生まれ、保武氏は高村光太郎が著した『ロダンの言葉』に感銘を受け彫刻家を志したことから、敬愛する高村光太郎の自宅を訪ね娘の命名をお願い、光太郎は『ちえこという名前しか思い浮かばない。智恵子のような不幸な道を歩ませたくない』と言い千枝子と命名。それは奇しくも光太郎の最愛の妻の死後3年目」などとあった。
愚生がたまたま読んでいたのは、絵本プロジェクトで被災地での活動のことを書かれた部分だったが、旧知の照井翠の句集『龍宮』のことも出てきて、
なぜ生きるこれだけ神に叱られて 翠
寒昴たれも誰かのただひとり
などの句も引用されており、愚生の鈍感な胸にもいくばくか響いてきたのだった。
*閑話休題・・高野ムツオ「みちのくはもとより泥土桜満つ」(『小熊座の俳句』三十周年記念合同句集)・・
その3.11を詠んだ句も多く含まれる『小熊座の俳句 三十周年記念合同句集』(小熊座俳句会)が刊行された。その序に高野ムツオは以下のように記している。
俳句形式に秘められている世界は無尽蔵である。一人一人がさらに艱難を自らに課しながら、詩性に向かい、その先に他に紛れることのない独自の世界を展開されることを期待」。
いつかを挙げておきたい(俳句は過去5年間からの自選とあった)。
春天より我らが生みし放射能 高野ムツオ
狂気とは赤紙の色開戦日 大久保和子
始まりは星の爆発夜の桃 大場鬼怒多
凍土より伸びて一樹の高さかな 春日石疼
たんぽぽの絮とぶ象のいない檻 越髙飛騨男
月光の他みな伏せ字3・11 佐藤きみこ
金蛇の死を金蛇が通り過ぐ 関根かな
毛布よりはみ出す握り返せぬ手 津髙里永子
拾はれぬ木の実月下に降るばかり 浪山克彦
放射能なぜ水源に水の秋 俘 夷蘭
回想のすべてが津波寒北斗 吉野秀彦
いつの世も禁書は読まれ雲の峰 渡辺誠一郎
生きてゐるとはまた逢へること冬の星 草野志津久
風までも雪の朝に影となり 佐藤 栞
あるはただ一つの地球鰯雲 林 哲
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