2017年4月5日水曜日
攝津幸彦「大学 五月 薔薇という字を また忘れる」(『昭和俳句作品年表(戦後編昭和21年~昭和45年)』」より・・
『昭和俳句作品年表 戦後編 昭和21年~45年』(東京堂出版)は、現代俳句協会が創立60周年記念事業の一つとして編纂してきて、今年の創立70周年直前にようやく成った労作である。「戦前篇」に次ぐ貴重なテキストになるだろう。編集委員代表の宇多喜代子も述べているように、今後、昭和45年以後、昭和の終わりまでが纏められてはじめて、昭和作品年表が完成するのである(編纂途中に村井和一、大畑等を失ったことが記してあった。お二人とも惜しいが、とりわけ大畑等は愚生と同年代の若さだった)。
感慨深いのは、昭和44年の部分に、愚生も忘却していた作品「地底棲む流浪の眼玉蟹歩む」をよくも初出誌より見つけ出してくれたものだと思った。その前年の昭和43年には、ブログタイトルに揚げた攝津幸彦の句が、口語、現代仮名遣い、一字アケの作品が収録されていること、また、高野ムツオ「翼欲しい少年街は黄落期」、島谷征良「蝌蚪散つて天日うごく水の上」があったことである。同世代では西村和子「草刈機草を噛みたる音をたて」、宮入聖「灰の中より秋風の立てりけり」など。同時期にしょうり大「身の軽くなるきつつきの声の中」、阿部完市「ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん」、飯島晴子「これ着ると梟が啼くめくら縞」、飯田龍太「一月の川一月の谷の中」、赤尾兜子「機関車の底まで月明らか 馬盥」、加藤郁乎「牡丹ていっくに蕪村ずること二三片」、三橋敏雄「たましひのまはりの山の蒼さかな」、三橋鷹女「枯羊歯を神かとおもふまでに痩せ」、永田耕衣「男老いて男を愛す葛の花」、金子兜太「暗黒や関東平野に火事一つ」など挙げればきりもない。
また、本著には巻末に川名大が「戦後俳句の展望ー『近代』と『反近代』の諸相」と題して、「一新俳壇の形成(昭和二十一年~二十五年)」、「二『戦後派』の台頭と『社会性俳句』の勃興(昭和二十六年~昭和三十年」、「三 前衛俳句の勃興(昭和三十一年~三十五年)」、「四 俳壇の断層(昭和三十六年~昭和四十年)」、「五 昭和世代の台頭(昭和四十年~昭和四五年)」の章を立てて戦後俳句史を描きだしている。
ここで、『昭和俳句作品年表・戦後編』の昭和45年以後、つまり1970年代以後、現在にい至る俳句界の動向を執筆した、手際のよい雑誌を紹介しておこう。NHKカルチャーラジオのテキスト4月~6月放送分の青木亮人著「文学の世界『俳句の変革者たちー正岡子規から俳句甲子園まで』」(NHK出版)である。
その目次をたどると、第9回放送「全共闘時代の熱気と反骨精神ー60-70年代」以後である。そこには1969年「京大俳句」中谷寛章、当時27歳の一文が以下のように引用されている。
青春のポエジーはそれ自体、不安定なものであると思っている。それは詩人の個的な情念と社会意識との分水嶺をはげしく流動しつつ、新しい土地への自由な航行を志向する。
また、当時「日時計」に拠った坪内稔典や攝津幸彦の主張、作品も紹介されている。坪内稔典「魚くさい路地の日だまり母縮む」、攝津幸彦「梅雨明けの彼岸のベルの凄さかな」、澤好摩「椅子はみなあふむけに燃ゆ油闇」、竹中宏「街を出る喝采のごと肩の汗」など。続いて第10回「豊かさ」がもたらした地方再発見ー70年代」、第11回「『おおきくて野暮』から「器用で洗練された』へー80-90年代」、第12回「日本人は「死」をどう描いてきたかー戦後と現代」などと続き、最後は、第13回「洗練された表現、大震災、現在の若手俳人たちー90ー00年代」において、現代歌人の斉藤斎藤、荻原裕幸、加藤治郎、穂村弘に対応させながら、『新撰21』から鴇田智哉「円柱は春の夕べにあらはれぬ」、関悦史「人類に空爆のある雑煮かな」、俳句甲子園からは、神野紗希「カンバスの余白八月十五日」、佐藤文香「少女みな紺の水着を絞りけり」、他にはまた、村上鞆彦「枯山のうしろの空の雪の山」、あるいは、髙柳克弘「茄子を焼く煙あはしや恋をはる」、彌榮裕樹「鶴帰る滋賀銀行の灯りけり」、坂西敦子「金魚揺れべつの金魚の現れし」、生駒大祐「秋燕の記憶薄れて空ばかり」などを紹介している。
放送はラジオ第2放送、放送日は木曜日は午後8時30分~9時、再放送は翌週木曜日の午前10時~10時30分。最近、ラジオなど聞いたことがないので、久しぶりに一度は聞いてみようかなと思っている。青木亮人ってどんな声をしているのだろう。楽しみに・・。
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