2017年4月27日木曜日
漠夢道「概念の夜霧に濡れているばかり」(『棒になる話』)・・
獏夢道『棒になる話』(七月堂)。帯の背に「具象から抽象へ」とある。この惹句には見覚えがあると思ったら、加藤郁乎の言った「非具象俳句」なるものに思い至った。
著者「あとがき」には、こうあった。
ある日から、できるかぎりミステリアスな作品を作ってみたい、そんな思いだけはつねにわたくしの心を占めていたように思います。同時に書くという行為が果たしていかなる充足をわたくしにもたらすものであるか、否。このふたつの思いのなかであるいは揺れつづけてきたのかもしれない。『くちびる』を出版してから十数年という歳月が流れ去っている。
ブログタイトルに掲げた句には、すぐにも、渡辺白泉「街燈は夜霧にぬれるためにある」を思うだろう。実はこうした印象は他の句においても意外と多くあった。それはたぶん漠夢道が俳句を書くことを思考するという行為が招いた結果、こうした傾向を有する俳人の句に影響をうけているのかもかもしれない。一例をあげると、
草二本おそらく左側である 夢道
わたくしに肖ている男草二本
の句には、これも有名な富沢赤黄男「草二本だけ生えてゐる 時間」を思い起こさざるをえない。いずれも先行する句があって、その句を下敷きにしたパロディ―とも考えられなくもないが、趣向がかなり違う印象である。
ともあれ、いくつかの句を挙げておこう。
とある日の桃の木倒る倒れたり
鳥墜ちる午前二時から午前二時
影になるためにきてみた夏野原
カンナとは知らずにカンナ見る男
遥かなり山河を仰ぎ仰ぎみる
獏夢道(ばく・むどう)1946年、北海道生まれ。
撮影・葛城綾呂↑
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