「俳句界」8月号(文學の森)、特集は「文語と口語~それぞれの魅力」と「文學の森各賞を読む」である。前者の特集の執筆者は、総論が、岸本尚毅「文語の魅力/自由律俳人と文語」と坪内稔典「口語の魅力/口語が活躍する」、中岡毅雄「俳句はなぜ文語が主流なのか/文語俳句が主流な理由」、成田一子「文語と口語は混ざっても可か/言葉のコーディネート力」。他に「文語と口語、名句ピックアップ~それぞれの魅力」では文語と口語の作品各4句ずつを挙げ、解説めいたエッセイが収載されている。 これらのエッセイには、意外に口語の魅力が語られている。例えば、
(前略)あき子の句(愚生注:土肥あき子〈夜のぶらんこ都がひとつ足のした〉)。ポップスの歌詞と地続きであるような言葉。メロディが無くても負けない。口語の海は広く深く豊か。(加藤かな文)
(前略)会話体の響きや語気を句に持ち込むことによって、文語とは違った新しい韻律が生まれる。ここに口語俳句の可能性が広がっている。(依田善朗)
(前略)「切字」を使わない工夫を重ねることで、いま、ここにある実感と、こことは違う場所への想像力あふれる俳句が生み出されるのではと思っている。(三宅やよい)
(前略)とても難しいけれど、少し遠い距離感もまた、文語俳句の魅力である。
最後に、以前私が作った口語俳句を挙げて、
晩秋のどこに置いたかしら眼鏡 一葉 (山本一葉)
論考の中では、岸本尚毅「文語の魅力」が、自由律俳人の句を例句にして、具体的で最も説得力がった。以下に、少し長くなるが引用する。
いかにも俳句らしい姿といえば、有季定型と文語旧仮名。この姿は歴史の産物である。有季定型は連歌の発句以来、文語旧仮名は俳句固有ではなく、ある時代までの書き言葉がそうだった。(中略)
作品に応じて口語と文語を使い分けた様相を種田山頭火を例にして見ていく。(中略)
そうてまがる建物つめたし
何か捨てゝいつた人の寒い影
雪もよひ雪とならなかつたビルディング
「つめたし」が文語。「捨てゝいつた」「寒い影」「雪とならなかつた」が口語。
口語を文語に変えると「何か捨てゝゆきし人の影」「雪もよひ雪とならざりしビルディング」となる。文語にすると、山頭火らしい呟くような調子が失われる。逆に、文語を口語に変えると「そうてまがる建物つめたい」となり、「つめたし」という、いかにも冷たそうな響きが失われる。(中略)
いっぽう、ある俳句が生まれるときに文語か口語かを選択するスイッチがあると考えたらどうだろうか。すくなくとも白泉と山頭火はそのようなスイッチを持っていた。ただしそのスイッチは口語が文語かをフラットに判断するのではなく、あえて、例外処理を行うかどうか(スイッチを入れなければ原則通り)を決めるものだった。
山頭火が例外的に文語を用いたのは、「つめたし」「濁れる水」などの語感に惹かれてのことであろう。自由律俳人にとっての文語の魅力は、重く硬く鋭い音の響きにあったのではなかろうか。
*
仮に住宅顕信が文語という選択肢を持っていたならば〈重湯のさじ冷たい枕元に置かれる〉を「重湯のさじ冷たき枕元に置かる」としただろうか。〈冷たい夜のペロリとうげた壁である〉を「冷たき夜のペロリとうげし壁なり」としただろうか(「うげる」は顕信の出身地岡山の方言。「剥がれる」の意)。
本誌本号には、他に、佐高信の「甘口でコンニチハ!」は、脱原発の吉原毅(城南信用金庫名誉顧問)を迎えての対談。文學の森各賞を読むでは、「豈」発行人・筑紫磐井は文學の森大賞『俳句という無限空間』(大輪靖宏著)鑑賞を、愚生は、「『山本健吉評論賞』を読む/摂氏華氏 兄」を執筆した。図書館・書店などで立ち読みでもしていただければ幸甚である。また、山﨑十生は、句集『未知の国』で「文学の森賞」に入賞している。ともあれ、アトランダムに本誌の掲載作品からいくつかを挙げておこう。
かの銀河いちまいの葉をふらしけり 富澤赤黄男
木の実独楽風を回して止まりけり 日下野仁美
シベリアへつづく青さを鳥帰る 坂本宮尾
牛タンに麦飯あれば自粛でも 星野高士
陽炎を来て陽炎に遊ぶなる 鎌田 俊
露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 攝津幸彦
木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど 阿部完市
たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ 坪内稔典
ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 田島健一
分校に花粉症などいなかった 山﨑十生
多磨さくら加藤の墓を妻が掃く 加藤郁乎
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