山﨑公一歌集『挽歌日乗五百』(私家版)、山﨑公一、彼は歌人ではない。だが、妻を看取り、その後の約一年、妻の墓を建てるように、500首を目標にして、短歌を作った。妻の名は「てる子」、1952年、佐世保市生れ、2021年3月1日、腹膜がんにより永眠。享年69。
みまかりしきみは何処へ旅立ちぬ三月一日十六時三十二分 公一
「あとがき」は、実娘の山﨑泉「本書に寄せて」、その中に、
我が父がふたたび熱心にPCをいじりだしたのは、母が亡くなってすぐのことだった。(中略)
それなのに父は何かを執筆している。・・・というより、ずっとディスプレイに向かって考え込んでいる時間のほうが長い気がする。聞けば、病床の母についてつづった短歌をまとめ、本にするのだという。
短歌?彼にそんな趣味があるとは初耳だ。実際、母が末期に入ったあたりで、自然とノートに書きとめるようになったらしい。
目標は五百首。私は短歌はさっぱりだが、その量が初心者には大仕事であることはわかる。しかも、旅立った人との思い出をつづるということは、同時にその喪失感を何度もなぞることを意味する。母のことを形に残したい思いは痛いほどわかるが、辛い作業ではないだろうか。正直、少し心配になったりもした。
ともかく、母を亡くしてあきらかに気落ちしていた父の慰みになるならと、私はテレワークの傍ら見守ることにした。(中略)
ところで天国の母がこの短歌集を見たら、どう思うだろうか。「あらあら、ハム一さんたらこんなの出して」、「こんなこと言ったかな」などと困ったように言って、それでも最後には「ハム一さんらしいんじゃない」とはにかみそうだ。結局は似た者夫婦だから。
とあった。縁は不思議だ。この泉女史が誕生したばかりの頃、山﨑公一・てる子夫妻と同じ団地に住んでいた愚生夫婦は、愚生が夫君と、組合の争議団闘争の現場で知り合った縁で、短い間だっだが、保育園のお迎えをして、彼等が仕事から帰ってくるまでの時間、預かっていた時期がある(実際は、愚生ではなく妻が一人で見ていたのだが・・・)。その後は、お会いする機会がほとんどなかったのだが、山﨑公一の登山体験を書いた『山行記』と、泉女史のことが書かれた『イーちゃんの保育日誌』(いずれも私家版)はいただいていた。表紙絵は山﨑泉。ともあれ、絶唱揃いの500首なのだが、ここでは、いくつかを紹介し、挙げておきたい。
ニ〇一九年七月〇日 (愚生注:以後、月日は省略)
遭難(こと)あらば「私生きてはいけないわ」われのザックに重石のように
病状をずばり言いくる医師なれど「私は好きよそんな先生」
韓流のドラマにはまる君なれば三度も見たり「愛の不時着」
抗がん剤効くものなしと聞かされて医療を嗤(わら)う地の果てへ駆け
在宅の終末期ケア説かれつつわが妻なれどどこかひとごと
麻薬増え時間と量を記録する在庫管理のわれは売人
今宵よりベッドの下で宿直(とのい)する予期しながらもついにここまで
オキノーム飲めば痛みが取れるらし4(フォー)は半減3(スリー)ならば消ゆ
老老の介護はともに転(まろ)びつつわれらあらたに夫婦となりぬ
きみの目がどこか遠くを飛んでいる遠くへ行くな遠くを見るな
おいしいわ苺ジュースこれ飲めば生きていけますイチゴニンゲン
氷割りかけらひとつを口におく見守りだけの長い一日
唇を終日濡らす介護とはこれがまさかの末期の水か
唇の動きを読めばごめんねと聞こえるならば空耳であれ
もうゆくか弥生三月わかれ月われも続かんその野辺で待て
葬儀社の問うオプションに答えゆくきみが遺せし言葉に沿うて
母はいま夜ごと娘に会いに来し妻はいつ来る夫の夢に
半世紀前のこと
山が好き野猿峠を登りゆきひな鳥山で出会いしわれら
いつの日かてる子語録を作ろうと娘言い出しそれきりになり
仏壇も位牌も置かぬせめてもと投げるわがうたみきみは受けとれ
短歌とはわが身にまとうときどきのよそゆきの服いくさの鎧
撮影・鈴木純一「ひと雨にひと夜に√2(ルート2)分咲きに」↑
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