さとう野火著『京都・湖南の芭蕉』(京都新聞出版センター・2014年刊)、巻末に「さとう野火氏は平成二十四年七月二十六日、享年七十一歳で亡くなられました」とある。著者「あとがき」(平成二十二年二月)もあるので、生前に本稿は纏められていたものであろう。愚生は先日、京都は真如堂・法輪院の墓に初めて参ったが、墓碑には、娘の誕生の歓びを詠んだと思われる「白く生まれ/馬酔木花房/陽を散らす/野火」と刻んであった。その近くには、冷泉家の墓があり、また向井家(向井去来)の墓があった。
書名は『京都・湖南の芭蕉』であるが、内容は、芭蕉の生涯を写真をふんだんに挿入しながら解説した読みやすいもの。書名にあるように、帯文惹句には、とりわけ、「京・湖南の句碑。ゆかりの場所を約180か所とともに紹介 その息づかいを身近に感じる一冊」のとおりである。とはいえ、京都新聞社勤務時代の取材者として、多くの無署名の文章を書かれたであろうが生かされた緻密さ、そして、今回は、文字通り、自らの俳号をもっての刊行書であれば、当然ながら、さとう野火の俳句観もいたるところで開陳されている。例えば、
(前略』十二日、市振(いちぶり)・(石川県大聖寺町)に泊り、翌朝発っている。
一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月
艶な趣の濃いこの句は虚構中の虚構で大ウソ。学者の中には「遊女を萩に、月を自分に」見立てたものと解釈する人もある。詮索は自由。歌仙は必ず単調にならないよう艶のある句を入れるもので、芭蕉は恋句の名手であった。また、
「俳諧といふは別の事なし、上手に迂詐(うそ)をつく事なり」(俳諧十論)と。
俳文もまた同じで糞(くそ)リアリズムでは面白くもおかしくもない。
とある。また、愚生が京都に居た3年間、さとう野火にはずいぶんお世話になった。その場面場面で、俳句論を色々聴かされたが、その片鱗をうかがわせることが、著者「あとがき」に記されてあった。
現代の俳壇の不幸は、昭和後期に始まった生涯学習で、定年後のカルチャー教室ではないだろうか。六十歳の手習いで、余生が長いために伸びる人もいる。しかし、本格的な指導はされず、分かりやすい写生句が多く、面白くもおかしくもない類句が氾濫する。恐らく平成時代の俳人は典型の少ない空白の時代にいるのではないか。
四十年ぶりに芭蕉を取材して足跡地の変貌ぶりに驚いた。風景が現代化するのはやむなしだが、その地にふさわしくない句碑が多いこと。また、定稿にない句が彫られていたりしていることなどである。このため、原句を示すにあたり『芭蕉発句集』(編者、乾裕幸・桜井武次郎・永野仁)を基にした。各地に好事家によって建てられた句碑にはその地で詠まれたものではないことが多い。誤解をさけるため、詠まれた地をあえて示した。
挨拶句はあまり佳いとは思えないが、その地の風土が描かれているものは収録した。芭蕉の句がすべて佳作と決めている読者には大変失礼なことだが、芭蕉は俳諧師である。招待されて、持て成しを受け、餞別をもらえば亭主に一句をしたためるのは当然のことでもある。
また、本書の結びには、以下のように述べられている。
俳諧を「机上の言葉あそび」から「行動する文学へ」刷新した芭蕉の業績は文学史に不滅の光を放っている。
ともあれ、本書より、句の幾つかを挙げておこう。
命二ッの中に生(いき)たる桜哉 (芭蕉最古の句碑・滋賀県大岡寺)
五月雨(さみだれ)に鳰(にほ)の浮巣を見に行(ゆか)む (甲賀市・常明寺)
木のもとに汁も鱠(なます)も桜かな (膳所・戒琳庵)
牛呵(しか)る声に鴫たつゆふへかな 獅子老人(支考のこと)(京都・永観堂)
住倦(すみあ)いた世とはうそなり月と花 蘆元坊 ( 〃 )
百歳(ももとせ)の気色(けしき)を庭の落葉哉 (滋賀・明照寺)
半日は神を友にや年忘ㇾ (京都・上御霊神社)
うき我をさびしがらせよかんこどり (京都・金福寺)
六月(ろくぐわつ)や峰に雲置(おく)あらし山 (京都・大悲閣近くの山中)
清滝や波に散込(ちりこむ)青松葉 (京都・鳥居本亀屋町 落合橋東詰左)
「清滝や・・」の句は、去来が枕元に呼ばれ、改作を指示された句で、時間的に はこの句が最後だったために、辞世の句と主張する研究者もいる。
さとう野火(さとう・のび)本名・佐藤浩(ゆたか)、1940年8月11日~2012年7月26日) 大分県竹田市生まれ。
撮影・鈴木純一「木守も
右も
左も
ほの暗し」↑
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