2014年4月30日水曜日

仁平勝『路地裏の散歩者ー俳人攝津幸彦』・・・


ほんとうは、先日、『路地裏の散歩者』(邑書林)を恵まれた翌日にも、ブログに書きたかったのだが、今日になってしまった。
本書が、路地裏に隠れてしまって、仕方なく、書店に注文して取り寄せて読むしかないとあきらめていたところだった。昨夜、偶然に姿を現してくれたのだ。それは老人によくありがちな、予測もしないとんでもないところにそれが置かれている・・・という事態だった。封筒を開封したのちに何かの拍子でそちらに本が移動したとしか思えない、奥深い、予測もしない場所だった。
仁平勝の書くものは、発表時にことごとく読んでいるつもりなので、一本になるときは書き下ろしの部分から先に読む。最近に書かれた内容には、仁平勝の現在の在り様が読めて興味深いからだ。考え方も生き方も、歩んだ道も愚生とは違うはずだが、どうしても彼がどのように歩もうとしているのかが気になり、見届けたいという思いの方が強いのである。
それは、彼が俳人、あるいは評論家として世に出る前からの友人だったという、ただそれだけのことかも知れない。
先日も断捨離のつもりで整理をしていたら、大昔も大昔、彼と出会って間もないころ(愚生20歳代の初め)、古沢栲(現・首くくり栲象)が国分寺画廊で個展を開いた折の段ボールの表紙で作られた手作りの冊子に、古沢栲について愚生と仁平勝が彼についての文章を寄稿していたのを発見した(まったく愚生の記憶から消え去っていた。こんなこともあったのかと驚いた)。
その折に会ったのが現在も「豈」の表紙を飾ってもらっている、先年亡くなった風倉匠や赤瀬川原平(のちに小説家・尾辻克彦、ご本人はお忘れだと思うが・・)だった。
ある時、愚生の職場に仁平勝が『花盗人』の句集を携えてきた。攝津幸彦や坪内稔典など、二、三人の若い俳人を彼に紹介して、句集を送るように勧めたのである。そして、仁平勝と攝津幸彦は盟友となった。

                    ウワミズザクラ↓

ちなみに、本著の描き下ろしの部分は第三章「『非俳句的な環境』の探検ー『與野情話』を読む」である。攝津幸彦が生きていた1960年代末から70年代の時代背景を抜きにしては攝津俳句はあり得ないこと、また、加藤郁乎との影響関係を作品との対照で具体的に明らかにした出色の指摘である。また、攝津幸彦の普段の顔、日常をもうかがい知ることのできる懐かしさに満ちている。
(昨年、「鷹」に竹岡一郎が連載した「攝津幸彦論」も時代状況との関わりを後続世代でありながら、よく読みこんだと思える珠玉の論だったが・・)。
加藤郁乎の句と比較された攝津幸彦句と文の一例は、

     
      水に水逢ふてまじりぬ別れかな      『與野情話』
      餅を焼くすべて餅として焼くる

      花に花ふれぬ二つの句を考へ      『球体感覚』
      枯木見ゆすべて不在として見ゆる

  『球体感覚』にみられる特徴として、同じ漢字を反復するスタイルがある。よく知られた冒頭句 《冬の波冬の波止場に来て返す》は「冬の波」を反復すると同時に、二度目の「波」を「波止場」に転換させる仕掛けである。(中略)思うに意識されたパロディーではない。攝津は『球体感覚』を何度も読み込んでいるはずで、その文体が無意識のうちに浸透していると考えたほうがいい。これは『與野情話』全体にいえることだ。
  余談だが、攝津はあるとき、「いま『球体感覚』全句のパロディーを作っているんだ」といったことがある。第一句目は、《冬の波春(・)の波止場に来て返す》というものだ。なにかのパーティで本人にもそれを披露したが、郁乎は「そりゃあ攝津の俳諧だよ」と苦笑していた。もっとも第二句目以降は聞いたことがないので、どうやらその雄大な構想は一句だけで立ち消えたようだ。逆に言えば幻の第一句目は、かなり自信作だったのである。

今は亡き両名、仁平勝(ニヒラ・マサル)のことを、攝津幸彦は「ねぇ、ニヒラくん」、加藤郁乎は「おい、ニヒラ・カツ」・・・と、言っていた。

                                           ツツジ↑
   

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