2014年4月7日月曜日

不思議な三位一体・・


4月7日は三橋鷹女忌である。享年は74。
高柳重信は、「鷹女ノート」に次のように記した。

    僕が鷹女について書いてゆけば、当然、この不思議な三位一体に触れることを回避で   きないであろう。それは、やがて、昭和三十七年三月七日に赤黄男が没し、昭和四十    七年四月七日に鷹女が没し、そして、昭和五十七年五月七日に僕が没するという、こ    のめでたい俳句的恩寵の三位一体の成就について、おのずから書きすすむことになろ   う。(中略)
    それにしても、いま僕を魅了してやまぬ父と母と子の三位一体とは、いったい何であ    ろうか。周知のように、古代エジプトに於けるオシリスは、邪しまなセトの暴虐に遭い、と   きには大箱の中に詰められて海へ流され、あるときは死体をばらばらに切り刻まれ撒    き散らされてしまうが、やがてイシスとホルスの呪術によって蘇生し、遂に死者を支配す   る王となる。しかし、戦後の理不尽きわまる俳壇から徹底的に疎外されつづけた赤黄男   と鷹女は、どうしたら正当な評価を獲得し、俳句史の中に蘇生することができるのであ   ろうか。いまは、それを可能にするかもしれぬ三位一体の呪術に、いたずらに魅了され   ているばかりで、そのことの実現の叶わぬ無念さが、いっそう僕を苦しめ、躊躇を誘う    のであった。

高柳重信にとって、格別に親しい俳人としての父は富澤赤黄男で、母は三橋鷹女だった。その戦後俳壇の理不尽な評価を覆し、正当な評価を可能にするべく、重信が用いたのは呪術ではなく、『富澤赤黄男全句集』『三橋鷹女全句集』を編纂し出版することであった。「鷹女ノート」の最後に重信は、「それは僕にとって、母のような暗黒の迷路であった。こうして全句集に纏められた作品を通読しながら、いま改めて、そのことを特に思うのである」と締めくくっている。
重信が「鷹女ノート」を書いたのは、たぶん昭和51年の初めであろう。『三橋鷹女全句集』(立風書房)の発行日は鷹女の命日である四月七日(昭和51年)だからだ。重信が予感した昭和五十七年五月七日には、まだ6年の歳月を残していた。その重信が亡くなったのは、翌年、ほぼ一年後の昭和58年7月8日だった。まことの三位一体とはならなかったが、その月日の違いは、夢幻の予兆の範囲であったということも可能なわずかばかり差異ではないのか。
重信逝去の同じ年のほぼ2ヶ月前には寺山修司が逝った。重信の享年は60。富澤赤黄男と同齢だった。愚生の旧作より。

    五月修司七月重信逝ける空はも          恒行 


    蝶飛べり飛べよとおもふ掌の菫          鷹女
    日本の我はをみなや明治節
    燕来て夫の句下手知れわたる

鷹女の夫は俳号・東劔三。共に石鼎の「鹿火屋」で学び、おしどり夫婦で有名だった。

    夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
    初嵐して人の機嫌はとれませぬ
    つはぶきはだんまりの花嫌ひな花
    みんな夢雪割草が咲いたのね
    詩に痩せて二月渚をゆくはわたし
    白露や死んでゆく日も帯締めて
    老いながら椿となつて踊りけり
    天が下に風船売りとなりにけり


               ウメ↓

  

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