2018年11月8日木曜日

大久保橙青(武雄)「竜飛崎鷹を放つて峙(そばだ)てり」(新版『海鳴りの日々』)・・



 大久保武雄著新版『海鳴りの日々ーかくされた戦後史の断層』(北溟社)、同時刊に新版『原爆の証言』(北溟社)がある。その帯文には、

  広島の原爆を、直接あの場所で体験した著者は、「ただ神に祈ることしか考えられない」と語る。戦後、初代海上保安庁長官となり、政治家としても活躍。そして高濱虚子を敬愛した俳人でもあった著者の魂の叫び!

 とある。英訳も付されている。その大久保武雄の子息が大久保白村である。「『原爆の証言』新版について」で、

 「原爆の証言」の表紙は被曝より約一か月後の原爆ドームの写真である。写した当時まだ原爆ドームという言葉は定着していなかった。いつとなく誰が名付けたともなく市民の間で定着した言葉らしい。(中略)
 「原爆の証言」には被爆者の俳句と虚子の批評が掲載されている。
 その作品から二句を抽いて「原爆の証言」新版の「あとがき」を結ぶ。

  裸みな剥けし膚垂れ襤褸のごと    増本美奈子
  生き身はや蛆湧き死臭まとひつゝ

 と記している。その虚子の批評とは、「その時の写生」と題されたものであり、大久保白村の父・大久保橙青の原爆忌と題した10句も掲載されている。その句の幾つかを以下に挙げる。

  ケロイドの顔放心や原爆忌        橙青
  骨あまた包みてまつり原爆忌
  コスモスの咲いて原爆ドームかな
    永井博士邸跡
  黴の書の前にま白きデスマスク

 一方、新版『海鳴りの日々』は海上保安庁設立七〇年記念再刊のようであるが、こちらは戦後の海上保安庁設立の秘話、また米軍占領下とあって、戦後史に隠されたままになっていた貴重な証言がいくつもあるようで、読むほうも興味深々である。例えば、

  朝鮮戦争のときに、日本の掃海隊が出動したことについては、いままで断片的に報道された。しかし、それは必ずしも全体の真相を伝えるものではなかった。当時ダレス特使が来日し、日本は講和条約の締結をすすめるという微妙な国際情勢もあって、朝鮮水域への出動を極秘裏に運ぶこととした。それで世間が、朝鮮戦争の際の日本特別掃海隊活動の真相を知らないのも無理からぬことであった。曲げられた記事にたいしては、苦闘にたえた掃海隊員は等しく残念に思った。しかし、今日まで抗弁も出来なかったのである。

 としたためられている。当時、朝鮮戦争勃発に際し、北朝鮮は国連軍の上陸を阻止するために、多数のソ連製機雷を主要港に敷設していた。占領下の海上保安庁は第二次大戦中の米軍が施設した機雷の掃海に続き、米側の指令にもとづき朝鮮海域の掃海を実施、そして国連軍の行動の自由を確保するも、当然ながら蝕雷による死亡者、負傷者もでる。文字通り秘された戦死である。これらの掃海作業が極秘裏に行われたこともあって、三十年以上顕彰されなかったのである。

 中谷君の殉職を始め、特別掃海隊の死傷者は十九人を数えている。(中略)朝鮮戦争を契機として経済発展を遂げ経済大国に成長した日本の人びとには、祖国に殉じ、祖国のために傷つき、異国の戦地で風浪と闘い、機雷の掃海に労苦をいとわなかった日本特別掃海隊員のことを、思い起こしてもらいたいと思う。私はそのためにこそ、かくされた真相を世に問おうと思った次第である。   

 と著者の大久保武雄(俳号・橙青)は述べる。子息・大久保白村は今、父の政治団体を一つにまとめ「こゑの会」としてその事業を引き継いでいる。

大久保武雄(おおくぼ・たけお)熊本市生まれ。1903年11月24日~1996年10月14日。
大久保白村(おおくぼ・はくそん) 1930年東京生まれ。


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