2018年11月26日月曜日

志賀康「天恩や落ちざる雪もありぬらん」(「LOTUS」第40号)・・・

 

 「LOTUS」(発行人・酒巻英一郎)第40号の特集は「志賀康句集『主根鑑』評」である。論考に澤好摩「己が源郷への旅」、高原耕治「創造行為の源泉へ」、さらに、表健太郎・九堂夜想・救仁郷由美子の鼎談「未完言語としての俳句」である。そのなかで高原耕治の俳句現況への言及を以下に紹介しておきたい。

 試しに、いわゆる現代俳句の諸相、特に若い俳人たちのそれと比較してみるとよい。何処か初々しい感じがしないでもないが、それは俳句の新しみ(・・・)ではない。一見、新しそうに見えるが、実は誰でも想いつき易いイメージとイメージを組み合わせただけの幻想で終わっているたわいのない作品、またイメージとイメージを絡み合わせ、積み上げたまではよいが、それが恣意的で強引な言葉の言い回しに依拠しているため、想像力の統合にまで行き着けず、俳句形式における意味的価値、芸術的価値が暗礁に乗り上げ、その形式自体に頓挫をきたしている作品、ほとんどそういうレベルの作品で溢れ返っている。一方、中年、老人の俳人達の作品にも目を通すことがあるが、おおむねそれらの作品は、偶々、いささかの屈折や巧緻さはみられこそすれ、すでに使い古された俳句技術によって書かれているため退屈この上ない。いずれにせよ志賀作品のような《存在学》的な新しい着想や発想を窺うことはできない。

 また、座談会において九堂夜想は、

  話さなくなりて程なく稲の花
という句に強くひっかかっていて、殊更に窓秋的ということでもないんですけれども、もしかしたら、『主根鑑』の中で一番の秀句なんじゃないかと思ってるんですが、この「話さなくなりて」というー。

 あるいは、表健太郎は、

 志賀さんは自然そのものではなくて、言葉にまつわる自然を言語として抽出しているように思えるんですね。だから読者に自然を想起してほしいとは思っていないじゃないか。それが独特な文体を作り上げていて、従来のアプローチでは捉え難いような気がするんです。すると、志賀さんの俳句を面白いと感じるには従来のアプロ―チから離れる必要があるわけで、それ自体が非常に難しい。

 と語っている。引用が長くなってしまったが、以下に同誌の一人一句を挙げておこう。

  雪やんで天の漂流始まりぬ      志賀 康
  天深くガラスのピアノ仰ぎ見る    表健太郎
  鳥食らつとに毬(があが)を咥えては 九堂夜想
  
  手毬忌なれば
  シャガールの夜へ
  雨                 熊谷陽一

  風の鋏にきりひらかれてかきつばた  三枝桂子
  
  縛縄の
  眠れる葱と
  なりにけり            酒巻英一郎

  今宵こそ花に尋ねん否諾かも -加茂 鈴木純一
  向日葵のいつまでつづく連鎖かな   曾根 毅
  向日葵やまわりみちして解熱    髙橋比呂子
    解読不可能性、困ったことが起きているという感覚。
  飛ばされゆく傘の群のむこうにキリン 古田嘉彦
  浜防風ハマヒルガオの前衛る     松本光雄
  みそがれて崩るる芯に天は熟れ    無時空映
  蓮の實の三世飛び越す日雷      丑丸敬史

  

          撮影・葛城綾呂 石段のモミジ↑

0 件のコメント:

コメントを投稿